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2022年1月20日 (木)

ヤハウェ(主)に献身していたイサク

 創世記226-9には次のように記されています。
“6
アブラハムは全焼のささげ物のための薪(たきぎ)を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん。」
彼は
「何だ。わが子よ」と答えた。
イサクは尋ねた。
「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
8
アブラハムは答えた。
「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」
こうして二人は一緒に進んで行った。
9
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。
そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。2017)とあります。

 イサクの名前について
創世記189-15には次のように記されています。
“9
 彼らはアブラハムに「あなたの妻のサラはどこですか」と尋ねた。
アブラハムが「その天幕の中にいます」と答えると、
10
 彼らの一人が言った。「私は必ず来年の今頃、あなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻のサラには男の子が生まれているでしょう。」
サラは、その人の後ろにある天幕の入り口で聞いていた。
11
 アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。
12
 サラは心の中で笑って言った。
「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか。主人も年を取っているのに。」
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラハムに言われた。
「どうしてサラは、自分は年を取っているのに本当に子どもを産むことなどできるのか、と言って笑ったのか。14 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている。」
15
 サラは怖くなり、打ち消して言った。
「いえ、私は笑っていません。」
主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」(聖書協会共同訳)

 創世記189-15には、「笑う」という語が、4回(12.13.15節)出て来ます。
「笑う」という語のヘブライ語原語は「ツァーハク」です。

 創世記211-7には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は約束したとおりに、サラを顧みられた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は告げたとおりに、サラのために行われた。
2
サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3
アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた〔イサクという名は神が決められた名前{創世記1719参照}(筆者挿入)〕。
4
そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した〔創世記179-14参照(筆者挿入)〕。
5
アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
6
サラは言った。
「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
7
また、彼女は言った。
「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」2017)とあります。
 6節の「私のことで笑うでしょう」の「笑う」という語のヘブライ語原語は「ツァーハク」で、「笑うでしょう」のヘブライ語原語は「イツハーク」(日本語聖書では「イサク」)で、3節の「イサクと名づけた」の「イサク」は「イツハーク」です。

 創世記226-9a節の文章を読むと、イサクは、まさか自分がいけにえにされるとは思わなかったと思います。
父アブラハムは、いけにえの動物はヤハウェ(主)が備えてくださる、とイサクに言っていたのですから(8)。

 2017訳の創世記229には、
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。
そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。と記されています。

 「薪を並べた」と「そして息子イサクを縛り」の間には、言葉がありません。
イサクは薪を背負って歩ける若人です。
一方アブラハムは、100歳+イサクの年齢です。
イサクは、アブラハムを突き倒して逃げ帰ることもできたのです。

 しかし文章を読むと、イサクは、抵抗することもなく縛られ、いけにえとして準備されています。
イサクは、ヤハウェ(主)に対する献身の心を持っていたのではないかと私は想像します。イサクに、自分自身を全焼のささげ物としてヤハウェ(主)にお捧げする、という思いがなかったならば、この出来事は成立しなかったことでしょう。

 この後、イサクの代わりに、ヤハウェ(主)がいけにえの羊を備えてくださいました(13)ので、その時にはイサクは名前のとおり、「彼は笑った」ことでしょう。
(イサクは、彼は笑う、の意)

 アブラハムは、全部で8人の子をもうけました。
しかし、主の御旨の内にあって、主によって与えられた子はイサクだけでした。
アブラハムの他の7人は、肉による(人の意思や肉の望むところによる)子どもたちでした。
アブラハムとハガルの子のイシュマエルが一人、及び、
アブラハムとケトラの子の6人の子どもたち、すなわち、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハです(創世記251)。
アブラハムは、アブラハムの肉の子には、贈り物を与えて、遠くに行かせたのです(創世記256)。
アブラハムの全財産は、イサクに与えられました(創世記255)。

 イサクは、ヤハウェ(主)の約束の子どもでした。
キリスト者も同じです。
キリスト者に対して主はパウロを通して、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ121.22017)と語っておられます。

 キリスト者は、万物の根源である御父の都、天のエルサレムに住むことになるのです。
イエス様は、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」(マタイ13432017)と言われました。
またイエス様は、次のようにも言われました。
1 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ141-32017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
ローマ121.2に記されているように、
私たちのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げ続け、この世と調子を合わせることなく、常に心をあなたに向け、あなたにふさわしい者として自分自身を変えていただきつつ、神に喜ばれる歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月19日 (水)

自分の最愛の人よりも神であるヤハウェを愛するか

 創世記221-5には次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
神は仰せられた。
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4
三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5
それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。2017)とあります。

 1節には、“これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。”とありますように、アブラハムは、神の声を知っており、また、直ちに神の声を聞くことの出来た人です。

 また、1節には、「神がアブラハムを試練にあわせられた。」とありますから、神は、神を愛して神に従う者に対して試練にあわせることがある、ということが分かります。

 2節には試練の内容が記されています。
それは、「彼(最愛のイサク)を全焼のささげ物として献げなさい。」というものでした。
アブラハムにとっての最愛のものはイサクでしたが、キリスト者一人一人の最愛のものとは誰or何でしょうか。
それを献げなさい、とヤハウェ(主)は語られるのです。

 神様は、上記の命令を下す前に、「モリヤの地に行きなさい。」と命じています。
「モリヤ」をStrong辞書で調べると、「モリヤ」の「ヤ」のヘブライ語を英字表記に変換するすると“Yah”となり、ヤハウェ(主)の短縮形となっています。「モリヤ」は、「ラーアー」と「ヤー」という語から来ていると書いてあります。「ラーアー」は、見る、の意です。
モリヤの「モ」(ヘブライ語の「メム」)は全頭前置詞かも知れません。誰か教えてください。

 創世記22章を読み進めると分かりますが、アブラハムは、モリヤの山で神の御業を見るのです。
聖書協会共同訳の創世記2214には、「ヤハウェ・イルエ」、「主の山に、備えあり」という言葉が出て来ます。
聖書協会共同訳の欄外注に、「ヤハウェ・イルエ」は、「主は備える」の意、と記し、
「主の山に、備えあり」という文の「備えあり」について、聖書協会共同訳の欄外注は、別訳として、「主は現れる」と記しています。
「ヤハウェ・イルエ」の「イルエ」について、Strong辞書は、「ラーアー」から来ている、と述べています。「ラーアー」は、見る、の意です。2017訳の、「主の山には備えがある」という箇所の欄外注には、「主が備えてくださる」「主が見てくださる」の意、と記されています。

 アブラハムが住んでいたベエル・シェバという場所からモリヤ山までは100km近くあるようです。アブラハムとイサクはモリヤ山に行くのに3日かかっています。

 アブラハムは、最愛の息子と神ヤハウェのどちらをより愛するか、という試練を与えられましたが、「翌朝早く」(3)神ヤハウェの御言葉に従ってモリヤ山に向けて出発したのです。
 
 イエス様は、キリストの弟子たちに対して、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10372017)と語られました。

 イエス様は、キリスト者に対して、キリスト者は、父母、息子、娘を愛しますが、それ以上に私イエスを愛していなければ、イエス様の弟子としてふさわしくない、と語られたのです。

 「あなたは天国に言った時に、最初にだれに会いたいですか?」と聞かれた時、
「イエス様です。」と答えることが出来たら幸いですね。

 アブラハムが、神の命令に従った理由の一つに次のようなものがあります。
ヘブル1117-19には次のように記されています。
“17
信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18
神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
19
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。2017)とあります。
アブラハムが、上記のような考えに至ったのが、出発以前であったのか、歩いている途中であったのかについて、聖書は語っていませんが、ベエル・シェバを出立して三日目には、「おまえたち〔二人の若い者たち(筆者挿入)〕は、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言っています(5)。

 ヘブル1117-19節の解説以外にも、私は、アブラハムが、「モリヤ」という語を聞いたとき、神が出現して、何かをしてくださる、と想像したのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは私たちを想像ができないくらいに大いに愛してくださっておられますから、あなたの御言葉に従うことが一番だと思います。
あなたを愛する愛を更に加えてくださり、喜びをもってあなたにお従いすることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月18日 (火)

義のために(キリストのために)迫害された者は喜びなさい

 マタイ510を、
文語訳は、幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。と訳し、
新共同訳は、義のために迫害される人々〔原語は複数形(筆者挿入)〕は、幸いである、天の国はその人たちのものである。と訳し、新共同訳スタディ版の注は、後半部分をもしくは「その人たちは天の国のものである」。と記しています。
塚本訳は、ああ幸いだ、信仰のために迫害される人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。と訳しています。

 「義のために」とイエス様は語っておられますが、ここでいう「義」とは何を指しているのでしょうか?
 ピリピ(フィリピ)36のパウロの証しの中に、「律法による義」(2017or「律法の義」(新共同訳)という表現があります。
 イエス様は、「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人〔正しい人(新共同訳)〕を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」(マタイ10412017)と語られ、また、「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人〔義人(新改訳)〕たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(新共同訳)と語られたことがありました。
 今日の箇所の「義のために」と記されている「義」は、「律法の義」なのでしょうか、それとも「義人」と言われる人の「義」なのでしょうか?

 イエス様は、「7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主〔「聖霊」のこと(筆者挿入)〕はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11
さばきについてとは、この世を支配する者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕がさばかれたからです。」(ヨハネ16章・2017)と語られました。

 イエス様の贖いが成就し、私たちに聖霊が遣わされると、イエス様を信じないことが罪であり、十字架上で罪人として裁かれたイエス様こそ義なるお方であると悟ることができる、というのです。
イエス様が十字架につかれたのは、御父の御旨であり、イエス様ご自身の御意志でした。
1
ペテロ222-24には次のように記されています。
“22
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。2017)とあります。
 マルコ1619には、主イエスは彼ら〔弟子たち(筆者挿入)〕に語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。2017)と記されています。

 信仰による義というものがあります。
ローマ320-22を口語訳は、“20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。と記しています。

 1コリント130には、しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(新改訳第三版)と記されています。

 イエス様が「義のために迫害される人々」(新共同訳)と語られた内容は、「キリストの故に迫害される人々」&「キリストを信じる信仰の故に迫害される人々」と言い換えることが出来るのではないかと思います。

 マタイ510を私なりに意訳すると、「祝福されています。キリストの故に迫害される人々orキリストを信じる信仰の故に迫害される人々。その人たちは天の王国のものです。」となります。

 「義」をこの世的にとって、「あの人は正しい人だ」と、その人をこの世の人々が認めた場合があったとしても、主イエス・キリスト様を信じなければ、天の御国に入ることは出来ないのです。

 11.12節には、迫害を受けたときには、キリストの御座における裁き(2コリント510)において、大きな報酬を受けることが約束されています。
 11.12節を
口語訳は、わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳し、
塚本訳は、わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳しています。

 パウロは、
2
テモテ312で、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな〔信心深く生きようとする人は皆(新共同訳)〕、迫害を受けます。」(2017)と述べ、
テサロニケの信徒の人たちには、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。2テサロニケ14・新共同訳)と書き送りました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633・新共同訳)と語られました。
苦難に会ってもイエス様にあって勝利するものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月17日 (月)

自分の心を見張れ

 箴言423-27には次のように記されています。
“23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

 箴言423を、
2017
は、何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。と訳し、
口語訳は、油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。と訳し、
新共同訳は、何を守るよりも、自分の心〔(ヘ)「レブ」(筆者挿入)〕を守れ。そこに命の源がある。と訳し、
リビングバイブルは、「何よりも、あなたの心を守りなさい。心は生活全体に影響を与えるからです。」と意訳し、
フランシスコ会訳は、用心深くお前の心を守れ。そこから、命の泉が湧き出る。と訳し、
聖書協会共同訳は、守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。命はそこからくる。と訳しています。

 「あなたの心を守りに守れ、すべてから。何故なら、いのちの(複数形)出口の一部だから。」(私訳)とも訳せます(直訳的に)。

 この聖句を読んでいると、新約的には、イエス様の次の聖句を思い浮かべます。
ヨハネ737-39には次のように記されています。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、空洞、腹、子宮、心、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」で、人の内に住んでくださるという意味での聖霊はまだ来ていなかった、との意でしょう。旧約時代は内住ではありませんでした。(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)

 新約時代にキリスト者に内住してくださった聖霊は、全き神である御子が全き罪のない人となり、その御子イエス様の内にあって、イエス様と共に人間性を体験なさったのです。その聖霊がキリスト者に内住してくださったのです。それ故、ローマ826.27同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(新共同訳)という聖句にも頷けるのです。

 11弟子たちが聖霊を受けたのは、ヨハネ2021.22の箇所であり、次のように記されています。
“21
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」2017)とあります。

 11弟子以外の人たちの中でイエス様を信じた人は、ペンテコステ(五旬節)の日及びその後に聖霊を受けたのです。

 フランスにパスカルというキリスト者がいました。この人は、キリスト教の神学者であると共に、哲学者、物理学者、思想家、数学者、発明家、実業家でもあった人です。
パスカルは、多くの言葉を残しましたが、その中に、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」
というものがあります。

 パスカルのこの言葉は、今日書いてきたイエス様の御言葉の中にあるものを組み合わせるとできる言葉です。
再掲しますが、イエス様の御言葉とヨハネの解説は、次のように記されていました。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、原義は「空洞」、その他、腹、子宮、、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水〔聖い霊(筆者挿入)〕が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)と。

 イエス様を信じた時に、心の中の空洞となっている部分に新生という意味での霊の誕生をしたのでしょう。そしてそこに聖い霊が入ってくださったのです。
1
コリント617には、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)と記され、
ヨハネ1416.17には、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊〔聖霊のこと(筆者挿入)〕である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(新共同訳)というイエス様の御言葉があり、
ヨハネ1423には、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。2017)というイエス様の御言葉があるのです。
{「川」(複数形)が流れ出るようになる(ヨハネ738)}

 
新生したキリスト者の心の中には、聖なる、すなわち主なる神の霊があり、心がきよくあるとき、その心の中の霊から、主の何か(様々な良きもの)が流れ出していくのです。
それ故、主の働きを阻害するものを処理する必要があるのです。
今日の箇所、すなわち箴言の続きの聖句には次のように記されています。
“24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ〔ヘブル122a参照(筆者挿入)〕。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはパウロを通して、ローマ信徒への手紙66に、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」(新共同訳)と記してくださり、またガラテヤ524には、「キリスト・イエスに屬する者は、肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり。」(文語訳)と記してくださいました。
その恵みに立って、私を通しても三一の主なる神様に働いて頂くことができますように。
尊きあなたの御名を崇め、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月16日 (日)

主により頼む者を主が見捨てることはない

 詩篇99.10{新改訳2017(新改訳、口語訳、リビングバイブルの9.10節を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は10.11節としています)}には次のように記されています。
“9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は虐げられた者の砦、苦しみのときの砦。
10
御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。とあります。

 聖書協会共同訳は、
“10
主は虐げられた人の砦、苦難の時の砦。
11
御名を知る者はあなたに信頼する。主よ、あなたは尋ね求める人を、お見捨てにならなかった。と訳しています。

 イエス様を信じて救われたからといって、苦難がなくなるわけではありません。
イエス様は、最後の晩餐の席で、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と弟子たちに語られました。

 イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と語られる前に、
18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。20 しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。21 しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」(ヨハネ15章・2017)と語られました。

 昨年、中国のある地域では、クリスマス集会が禁止されました。その地域の主に在る兄姉たちにとってはまさに艱難が襲ってきているのです。
 大患難時代には恵みの時代に救われて携挙されたキリスト者はいませんが、大患難時代には、主が備えている艱難時代の聖徒たちが起こされていきます。その人たちは、殉教して天に帰ってくるのです。
 黙示録79-17には次のように記されています。
“9
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
10
彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
11
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。
12
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」
13
すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
14
そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
15
それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
16
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
17
御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」2017)とあります。

 肉体が殺される状態に置かれる苦難は重いものです。
しかし、その時でも、「御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔「ヤハウェ」。キリスト者の場合は「イエス」(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。」(詩篇910)と証しすることができるのです。

 現在の日本においては、迫害によって殺されるということはありませんが、肉体が死んでいく状態に置かれる苦難の一つとして、死病があります。
すべての人の肉体は死に向かっていますが、多くの人はそのことをあまり考えないかのように歩んでいます。しかし、いつ死ぬか分からない状態に置かれている病人は、死ぬかもしれないという心の状態に置かれているのです。
そのような場合でも、主により頼む者、主に信頼する者は、自分のすべてを主に委ね、天を望み、主から平安を賜り、平穏の内に日々を過ごすことができるのです。

 パウロは次のような思いをもって生活していました。
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(ピリピ120-242017)と記されています。

 パウロが、上述のように言えたのは、キリストの愛に包まれていたからor・&内なるキリストの愛が溢れ出していたからではないかと思います。

 それは、パウロの次の言葉からも分かります。
ローマ83537-39には次のように記されています。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(2017)とあります。

 常に主と共にあればパウロのように語ることができるでしょうが、たとえそうでなくても、イエス様は次のように語ってくださいます。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ637・新改訳第三版)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに、そしてイエス様に信頼することを得させてくださり感謝します。
あなたは、私たち新生させて頂いた者をイエス様の内に置いて下さり、またイエス様が内に住んでくださっておられますから感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月15日 (土)

主への信頼を教育する主

 主はアブラム(後のアブラハム)に次にように条件付きの契約を結びました。
創世記121-3には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」2017)とあります。

 この時、アブラムは75歳、サライ(後のサラ)は65歳でした(年の差が10歳であるのは、創世記1717参照)。
アブラムとサライ夫妻には、サライが65歳になっても子供がいなかったのです。
女性の卵子は、誕生時に全て備えられています。誕生後に卵子が増えることはなく、減っていくのみです。
アブラムは75歳、サライは65歳、おそらくその時から、9年間神のことばを信じて子供が与えられることを待ったことでしょう。
しかし、子どもは与えられませんでした。

 サライは、ヤハウェ(主)の、「あなた〔アブラム(筆者挿入)〕を大いなる国民とし」という約束に、人間の発想で協力しようとしたのかも知れません。
創世記121-3の約束から10年後のことです。
サライは、自分の女奴隷ハガルによって、アブラムの子どもを儲け(もうけ)、その子を自分の子どもにしようとしたのです(創世記163)。

 サライの期待通り、ハガルは子供を産みました。アブラムは、その子をイシュマエルと名づけました。この時、アブラムは86歳でした。サライは76歳であったでしょう。

 イシュマエルが誕生した時から13年間、ヤハウェ(主)とアブラムの関係記事が聖書に記されていません。

 アブラムは、サライの女奴隷ハガルと関係を持つ前(どのくらい前かは分かりません)に、ヤハウェ(主)から次のような約束を与えられていました。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。
19
ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」(創世記15章・2017)と記されています。

 ハガルは、アブラムの子を産んだことで、ハガルの女主人サライに対して従順でなくなったようです。ハガルは、アブラムの跡取りを産んだことで、気が大きくなっていったのでしょう。
サライはハガルを苛め(いじめ)抜き、追い出しました(創世記166)。

 
それから13年位の間、アブラムとサライはどのような生活を送ったのか、記されていません。聖書は、ヤハウェ(主)が人間に伝えたいことor教えたいことが書いてあるので、この間にそのような事柄がなかったのでしょう。というか、サライとアブラムがヤハウェ(主)の御旨に背いたので、ヤハウェ(主)からの御言葉がなかったのかも知れません。

 アブラムが99歳(サライは89歳)の時、ヤハウェ(主)はアブラムに現れました。
その時にヤハウェ(主)がアブラムに語った言葉が創世記17章に次のように記されています。
“1
・・・。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ〔完全に主を信じて従うものでありなさい(筆者挿入)〕。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」/
4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
5
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなるわたしがあなたを多くの国民の父とするからである。〔アブラムの名の意味は、「父は高められる」or「(地位の)高い父」。アブラハムの名の意味は、「多数のor大勢のor群衆の父」。文語訳は「衆多(おおく)の人の父」と訳し、他の日本語訳は「多くの国民の父」の意に訳しています(筆者挿入)〕
6
わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
7
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
8
わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」/
 〔9-14節は割礼の契約(筆者挿入)〕
9
・・・。「あなた〔アブラハム(筆者挿入)〕は、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
10
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
11
あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
12
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13
あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。
14
包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」2017

 創世記1715.16には、アブラハムとサライ(サラ)へのヤハウェ(主)の契約が次のように記されています。
“15
また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。〔「サライ」には、「支配的な」の意があります。「サラ」には、「女性の長、女性の支配者、女王」等の意があります。2017訳は、「彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」とヤハウェ(主)の御言葉を載せています。(筆者挿入)〕
16
わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)の冒頭の御言葉は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)というものでした。
しかし、アブラハムもサラもヤハウェ(主)の御言葉を信じることが出来ませんでした。
創世記1717.18には次のように記されています。
“17
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。
「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
18
そして、アブラハムは神に言った。
「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」2017)と。

 上記のように答えたアブラハムに対してヤハウェ(主)は次のように語ったと記されています。
“19
神は仰せられた。
「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
20
イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。
21
しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」
22
神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。(創世記17章・2017)とあります。

 サラはというと、サラも信じませんでした。
その後のことになりますが、創世記189-15には次のように記されています。
“9
彼らはアブラハムに言った。
「あなたの妻サラはどこにいますか。」
彼は答えた。
「天幕の中におります。」
10
すると、そのうちの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」
サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。
11
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた〔閉経していた(筆者挿入)〕。
12
サラは心の中で笑って、こう言った。
「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。14 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」
15
サラは打ち消して言った。
「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」2017)とあります。

 アブラハムもサラもヤハウェ(主)が語られたときには、すぐに信じることは出来ませんでした。
ヤハウェ(主)から、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)と言われたからといって、アブラハムといえども、アブラハムとサラの間に子供が生まれる、ということを信じることは出来なかったのです。
しかし、上記の一連の出来事があった後、主の御言葉を信じる信仰が与えられたのでしょう。 

 ヤハウェ(主)は、「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」(創世記18142017)と語られていますから、妊娠日数を差し引いた日にち以前には、アブラハムもサラも悔い改めて、ヤハウェ(主)の御言葉を信じる信仰を与えられたのではないかと想像します。
ヘブル1111に、アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。2017)と記されていますから。
 イシュマエルは、肉の欲求or人の欲求に基づく子でしたが、
イサクは、ヤハウェ(主)の御言葉に基づく子でした。

 キリスト者に対しては次のように記されています。
“3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
9
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。{エフェソ(エペソ)1章・新共同訳)とあります。

 ガラテヤ428には、「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
信仰の父と言われたアブラハムであっても、主から語られた約束を、すべて直ちに信じたわけではありませんでした。
あなたの恵みによって、私たちにあなたの御言葉のすべてを信じる信仰を与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月14日 (金)

幸いなるかな 平和ならしむる者or者たち

 マタイ59
文語訳は、幸福(さいわい)なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱(とな)へられん。と訳し、
2017
は、平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。と訳し、
聖書協会共同訳は、平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。と訳し、
岩波訳は、幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。と訳しています。
 複数形と単数形、時制をそのまま直訳しているのは岩波訳です。

 「神の子」と呼ばれるためには、神から生まれる必要があります。
永遠の昔から、神の御子は神のひとり子の御子です。
神のひとり子の御子は、贖いを成し遂げるために肉体を持ってマリアから誕生しました。マリアのお腹にいた神の御子は、聖霊によって肉体を纏ったのです(マタイ120)。
そして、誕生すると、イエス(イェシュア)と名づけられたのです。イェシュアとは、「神は救う」の意ですから、この子が救い主だということをユダヤ人なら理解できたでしょう。

 マタイ120.21には、彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」2017)と記されています。

 ローマ51には、“・・私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。”(2017)と記されています。

 神と人との間に平和を造りだしたお方、そのお方は、イエス・キリスト様です。
人間の新生児は、罪を内包している肉の両親から生まれたのであって、神から生まれたのではありません。それ故、人の子どもであって、神の子どもではありません。

 
ヨハネ36には、“肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”(新共同訳)と記されています。

 もし、今日の箇所の聖句が、「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。」(文語訳)のように、「平和ならしむる者」、「その人は神の子」と、日本語的に単数形と捉えたとしたら、この聖句は、イエス・キリスト様を表していることになったであろうと思います。

 キリスト者は、救い主であり、主であるイエス・キリスト様を信じました。心にお迎えしました(ヨハネ112、黙示録320)。その結果、神から霊の誕生をしたのです。そして神の子どもと呼ばれる身分となりました。新生したキリスト者は、肉体は罪を有する両親の遺伝子を受け継いだも出で出来ています。霊は神からのものです。体も神の子としてふさわしい霊の体に変えられるのは、キリストの空中再臨時です。

 ヨハネ33.6には、エスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」/肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(新共同訳)と記されています。
 1
ペテロ13には、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。

 1ヨハネ31.2には、私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。2017)と記されています。
「神の子ども」と訳されている「子ども」のギリシア語原語は「テクノン」です。
テクノンは「生む」という動詞に由来し,出生の系統に重点をおいています(聖書辞典参照)。

 1コリント15章に、“49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです2017)と記されています。

 1テサロニケ416.17には、“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)と記されています。キリストの空中再臨

 キリスト者でない人が、平和運動をしても「神の子」とは呼ばれません。
キリスト者が平和運動をしたら、平和をもたらし、神の子と呼ばれるようになるのでしょうか?
キリスト者が平和運動をしたところで、世界に永続する平和をもたらすことなど出来ないでしょう。

 この聖句を原語のギリシア語聖書で読むと、「神の子らと呼ばれるであろう。」と未来形で記されています。
 ローマ819には、被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。2017)と記されています。
「神の子どもたちの現れ」とは、霊のみならず、体も神の子どもとしての霊の体を与えられた後のことを指していると思います。

 そのように考えると、神の子どもたちは、何時平和を造りだすことになるのか、という問いに、私は一つだけ思いあたるものがあります。
その時の描写を黙示録は次のように記しています。
“11
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方〔地上再臨される神のひとり子の御子であられる主キリスト(筆者挿入)〕は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
12
その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
14
そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布〔黙示録198よりするとキリストの花嫁=エクレシア=真の教会=神の子どもたちです(筆者挿入)〕をまとってこの方に従っていた。
15
この方の口からは、鋭い剣〔エペソ617からすると「霊の剣」(筆者挿入)〕が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める(黙示録125)。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。
18
王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」
19
わたしはまた、あの獣〔大患難時代の地上支配者(筆者挿入)〕と、地上の王たち〔獣に従う諸国の統治者たち(筆者挿入)〕とその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。
20
しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者〔大患難時代の宗教指導者(筆者挿入)〕も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
21
残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。(黙示録19章・新共同訳)とあります。

 平和を造るための最終手段は、何と、無暴力の平和運動ではなく、武力による平定でした。

 神の子どもと呼ばれる者たちが平和を造りだすための計画に参画させて頂けるのは未来のことであり、黙示録のこの箇所しかないのではないかと、私は思いました。

 私の想像ですが、実際には、私たちはイエス様について行くだけで、イエス様が、一言、裁きの御言葉を発すれば、事は終わってしまうのではないかと思うのです。
戦いの天使たちも行くことでしょうから。

 今日の文章は、未来に関わることが多く、私の推測というか妄想と思われるようなものが含まれています。事実はその時が来れば分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは私たちに溢れ過ぎるほどの恵みを与えてくださることを感謝します。
いつもあなたを賛美し、あなたに感謝し、歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月13日 (木)

へりくだった者には恵みが与えられる

 箴言334には、へりくだった者には恵みが与えられる。2017)と記されています。

 「へりくだる」という語は、一般的には、相手を敬って自分を控えめにする。謙遜する。卑下する。(デジタル大辞泉)というように用いられます。

 聖書に、「へりくだる」と書いてある場合、その対象は、誰に対して(どなたに対して)のことでしょうか?
「へりくだる」対象は、三一の神様である、と私は思います。

 神様に対してへりくだる人は、神様が語られた御言葉に対してへりくだります。
ですから、聖書に記されていることを素直に受け入れるのです。

 その反対に、聖書に記されている神様の御言葉を信じない人、ないがしろにする人、敵対する人は、神様に対して「高慢な人」、「高ぶる人」と言えると思います。

 キリスト者は、見境なくへりくだるべきではないでしょう。
悪魔悪霊のような悪しき霊にへりくだっては困ります。
悪魔悪霊に従っている人の命令に対して素直に聞き従うことは、神に対する高慢になります。

 一方、神に聞き従って歩んでいる人、神の御言葉の中を歩んでいる人に聞き従うことは、神に対して謙遜な行動です。
とはいえ、相手が人間の場合、平素より神様に従っている人の言動が100%神様の御旨の通りとは限りません。一例として、ガラテヤ211-13があります。
 ガラテヤ211-14には次のように記されています。
“11
さて、ケファ〔「ペテロ」の別称(筆者挿入)〕がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたし〔パウロ(筆者挿入)〕は面と向かって反対しました。
12
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来る〔「ヤコブの友人であるユダヤ人が何人かやって来る」(リビングバイブルの意訳)〕までは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
13
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
14
しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(新共同訳)とあります。
「ケファ」とはペテロの別名です。ギリシア語聖書(TR)には、この箇所は「ペトロス」となっています。「ケファ」はアラム語で「岩」です。

 いつもは主に対して謙遜なケファ(ペテロ)とバルナバでしたが、パウロに叱責されたときには、主に対して高慢になっていました。人を恐れて罠にかかってしまったのです。
一方、パウロの方は、ケファ(ペテロ)とバルナバに対して高慢なように見えますが、主に対して謙遜であったのです。

 余談になりますが、
「岩」という語が出てきたので、マタイ1618の聖句の一部を下記します。
イエス様がシモン{「ヨナの子シモン」(ペテロorケファはイエス様がつけた名前)}に、「あなたはペテロ〔原語であるギリシア語は「ペトロス」で、岩{の一部分(かけら)}の意(筆者挿入)〕です。
わたしはこの岩〔キリストが自分を指して「この岩」と言っています。この岩の「岩」と訳されている語の原語であるギリシア語は「ペトラ」で、大きな岩の意です(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。

リビングバイブルは、同じ個所を次のように意訳しています。
“あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの大きな岩の上に私の教会を立てます。”と。

 後になって、ペテロは、手紙の中で次のように記しました。
意訳になりますが、リビングバイブル旧版は次のように訳しています。
“キリスト様に近づきなさい。キリスト様は生ける土台石となり、神様はその上に、神の家をお建てになるのです。キリスト様を、人々は拒絶しましたが、神様は最も重要な存在として選ばれたのです。そして今、あなたがたは、神の家を建て上げるための生ける石となったのです。そればかりか、神様のきよい祭司となりました。イエス・キリストによって、神様に受け入れられたあなたがたは、喜ばれる供え物を神様にささげなさい。”(1ペテロ2:4.5)とあります。

 今日の聖書箇所は、“へりくだった者には恵みが与えられる。”(箴言3:34・2017)という聖句です。
主は最初に救いの恵みを与えてくださり、更に、聖書に記されている主が約束してくださった聖句に信頼していけば、その聖句に基づいた恵みが与えられていくのです。
主に信頼すること、即ち主の御言葉に信頼することは非常に幸いなことです。

 イエス様は、キリスト者を羊に譬えて次のように語られました。
ヨハネ10:10(抜粋)には、次のように記されています。
諸聖書の訳を記しますと、
 2017は、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」と訳し、
 新改訳第三版は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と訳し、
 新共同訳は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と訳し、
 口語訳は、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」と訳し、
 塚本訳は、「わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。」と訳し、
 リビングバイブルは、「わたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。」と訳しています。

 ヨハネ1:16には、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(新共同訳)と記されています。
 
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが与えてくださった私たちへの約束の聖句を単純に、素直に信じて歩み続ける者であらせてください。
次から次へと恵みを与えてくださろうとなさっておられることを感謝します。
というよりも、あなたは、「天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3・2017)からありがとうございます。
あとは、私たちが約束された聖句を信じるか否かであることを覚えます。
信じることも賜物ですから、それをも豊かに与えてください。
イエス様が、「求めなさい。そうそれば与えられます。」と語られたのですから。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月12日 (水)

ヘブル人への手紙2章に引用された詩篇8篇、イエス・キリストの預言

 ヘブル人への手紙25-10を、
2017
は、
5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。
「人とは何ものなのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みてくださるとは。
7
あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、8 万物を彼の足の下に置かれました。」
神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。
それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
9
ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。”と訳し、

 フランシスコ会訳は、
“5
神は、わたしたちが今、語っている、この来たるべき世界を、み使いたちの支配のもとに置くことはなさいませんでした。6聖書のある箇所で、こう証言している人がいます、
「人とは、何者なので、これをみ心に留められるのか。
人の子とは、何者なので、これを顧みられるのか。
7
あなたは、人を、しばらくの間、み使いたちよりも低いものとし、彼に栄えと誉れの冠を与え、8すべてのものを、その足の支配下に置かれた」。
「すべてのものをその支配下に置かれた」ということは、神がこの方の支配下に置かれなかった ものは何一つ残っていないということです。それなのに、今もなお、わたしたちは、この方が万物を支配しているのを目にしていません。9しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、み使いたちよりも低いもの」とされたこのイエスが、その死の苦しみの故に、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエスは、神の恵みによって、すべての人のために、この死を味わったのです。
10
万物の目的であり、造り主である方にとって、多くの子らを栄光に導くために、救いの創始者を数々の苦しみを通して、完全な者となさったのは、ふさわしいことでした。と訳しています。

 新改訳や口語訳が、詩篇84-6としている箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳等は、5-7節としています。
ここではフランシスコ会訳を下記します。
“5
人とは何者なので、これをみ心に留められるのですか。
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
6
あなたは人を神よりも僅かに劣るものとし、
彼に栄えと輝きの冠を与え、
7
み手の業を司どらせ、すべてのものを彼の足の下に置かれました。と訳しています。

 もしもアダムが罪を犯さなかったならば、この詩篇の箇所は、アダムに該当するものです。
創世記126-29には次のように記されています。
“26
神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」(新共同訳)とあります。

 アダムは堕罪しました。
その結果、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」という神の御言葉は堕罪後のアダムに実現しなくなりました。
アダムの堕罪後、この地はサタンに横奪されたのです。
1
ヨハネ519に、私たちは神に属していますが、世全体は悪い者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕の支配下にあることを、私たちは知っています。2017)と記されている通りです。

 詩篇8篇の表題(新共同訳等は1節)には、指揮者のために。ギテトの調べにのせて。ダビデの賛歌。2017)と記されていますから、この詩篇はアダムが死んだ後のものであることが分かります。
とすると、詩篇84-8の箇所は、人となられたイエス様(御子は完全な神であり、罪人を贖うために人ともなられたお方ですが)にピッタリの預言であることが分かります。
 再掲部分も含めて4-8節には次のように記されています。
“4
人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
5
あなたは、人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。
6
あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
7
羊も牛もすべて、また野の獣も、8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。とあります。
 4節冒頭の「人」と訳されている語のヘブライ語原語は、アダムではなく、「エノーシュ」で、死ぬべき運命の人、の意があります。

 話は変わって、私たちキリスト者の働きに大いに関係ある詩篇82(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、3節)の聖句を2017訳は次のように記しています。
幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました。
あなたに敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるために。とあります。
 「幼子たち、乳飲み子たち」というのは、新生したキリスト者で、単純に霊の父及び主イエスを信じる者たちのことです。
「あなたに敵対する者」とは、詩篇8:1の文脈から言うと、「ヤハウェ(主)に敵対する者」ということになりますから、サタン(悪魔)のことです。
サタンのヘブライ語原語は「サーターン」で、元来、「敵対者」の意です。
「復讐する敵」もサタンのことを言っていますが、「敵対する者」や「復讐する敵」と称される見える部分の人たちもいます。三一の神に敵対する人たちです。その人たちは、悪魔悪霊の配下に置かれているのです。しかし、キリスト者もかつては悪魔悪霊の配下に置かれていたのです。
エペソ21-3に次のように記されている通りです。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔三一の神に従わない者たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神からの罰(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。2017)と。

 ところが、キリストの御救いにあずかったキリスト者たちは、幼子や乳飲み子が親を信じるように、単純に霊の父を信じ、主イエス様を信じ、そのおことばを信じ、御父や御子を賛美するように変えられていますor変えられていきます。
空中の権を持つサタンやその配下の者たち(悪しき霊の者たちやサタンに従う人達)は、幼子や乳飲み子と言われるキリスト者によって、敗北しているというのです。
私たちキリスト者はどの様にして勝利しているのでしょうか。
それは、主を愛し、主に信頼し、主を賛美し、主のあかしをすることによってです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちが、御父や主イエス様を賛美するとき、またあかしをするとき、サタンは嫌な思いをし、逆に、御父と御子と御霊は喜んでくださいます。
ハレルヤ!
あなたを賛美しながら歩んでいく生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月11日 (火)

人を恐れずに主に信頼し、主に従おう

 創世記20:1.2には、
“1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、
2 アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。”(2017)と記されています。

 サラはアブラハムの異母妹でした。
創世記20:12に、アブラハムの言葉として、「あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。」(2017)と記されています。
 サラは既に高齢になっていました。
創世記18:11に、“アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。”(フランシスコ会訳)と記されています。
 サラは美しい人であったので、以前のことですが、アブラハム(アブラム)はサラ(サライ)と次のような取り決めをしたことがあったのです。
創世記12:11-13には次のように記されています。
“11 彼〔アブラム(筆者挿入)〕がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。
「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」”(2017)とあります。

 アブラム(アブラハム)の自己保身から、アブラムとサライ(サラ)が、主に信頼せずに、人知のみによって50%の真実だけを告げたことによる、エジプトでの出来事が次のように記されています(創世記12:11-13も再掲します)。
“9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
10 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。
11 彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。
「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」
14 アブラムがエジプトにやって来たとき、エジプト人はサライを見て、非常に美しいと思った。
15 ファラオの高官たちが彼女を見て、ファラオに彼女を薦めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
16 アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
17 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。
18 そこで、ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。
「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜ私に告げなかったのか。19 なぜ、『私の妹です』と言ったのか。だから、私は彼女を自分の妻として召し入れたのだ。さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい。」
20 ファラオがアブラムについて家来に命じたので、彼らは彼を、妻と、所有するすべてのものと一緒に送り出した。”(創世記12章・2017)とあります。

 上記の記事は創世記12章ですが、同じ創世記12章の冒頭には次のような主の約束が記されていました。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」”(2017)とあります。

 アブラムは、創世記12:1bの御命令に従ったのですが、従っておきながら、2.3節のヤハウェ(主)の約束を信じ切れなかったのかも知れません。

 今日の箇所は、創世記20章ですが、アブラハムは同じ失敗を繰り返したのです。
アブラハム(アブラム)は、殺されることを恐れて、エジプトでの失敗と同じ失敗をしたのです。

 既に、創世記20:1.2、12は上記に記しましたが、それをも含め創世記20章を下記します。
“1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、
2 アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、
ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。
3 その夜、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。
「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」
4 アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかった。そこで彼は言った。
「主〔アドナイ(筆者挿入)〕よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。
5 彼が私に『これは私の妹です』と言ったのではありませんか。彼女自身も『これは私の兄です』と言いました。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」
6 神〔エロヒーム(筆者挿入)〕は夢の中で彼に仰せられた。
「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。7 今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」
8 翌朝早く、アビメレクは彼のしもべをみな呼び寄せ、これらのことをすべて語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。
9 アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。
「あなたは何ということを私たちにしたのか。私がいったい、罪となるどんなことをあなたにしたというのか。あなたが、私と私の王国に大きな罪をもたらそうとするとは。あなたは、してはならないことを私にしたのだ。」〔アブラハムはヤハウェ(主)に対する不信仰の罪の故にヤハウェ(主)の民ではない人に叱責されました。(筆者挿入)〕
10 また、アビメレクはアブラハムに言った。
「あなたはなぜ、こんなことをしたのか。」
11 アブラハムは答えた。
「この地方には、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。12 また、本当に、あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。
13 神〔エロヒーム(筆者挿入)〕が私を父の家から、さすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『このようにして、あなたの真実の愛を私に尽くしてほしい。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言ってほしい』と言ったのです。」
14 アビメレクは、羊の群れと牛の群れと、男女の奴隷たちを連れて来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。
15 アビメレクは言った。
「見なさい。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思うところに住みなさい。」
16 サラに対しては、こう言った。
「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。これはあなたにとって、また一緒にいるすべての人にとって、あなたを守るものとなるだろう。これであなたは、すべての人の前で正しいとされるだろう。」
17 そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。
18 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、アブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。”(2017)と記されています。

 箴言29:25を、
 2017は、“人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。”と訳し、
 聖書協会共同訳は、“人間を恐れると、それは罠となる。主を信頼する人は高い所で安らかである。”と訳し、
 フランシスコ会訳は、“恐れは人を罠にかける。しかし、主に信頼する人は安全。”と訳し、
 新共同訳は、“人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。”と訳し、
 新改訳第三版は、“人を恐れるとわなにかかる。しかしに信頼する者は守られる。”と訳しています。
 直訳的に私訳すると、「人を恐れると、ロープの端を引っぱると輪が縮まるような輪をかけられ首を絞められる。しかし、ヤハウェ(主)に信頼する者は守られるor高いところに置かれる。」となります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
これまでにも数々の不信仰の罪を犯してきましたが、あなたは、私たち新生した者を、あなたの子であるがゆえに、あなたの愛する子として扱ってきてくださいましたことを感謝します。
聖書の中には、あなたが約束してくださった御言葉がたくさんあります。
あなたの御言葉に即ちあなたに信頼し、あなたに従い続けて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月10日 (月)

心のきよい人は神を見る

 マタイ58
文語訳は、幸福(さいわい)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。と訳し、
2017
は、心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。と訳し、
口語訳は、心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。と訳し、リビングバイブルは、心のきよい人は幸いです。そういう人は親しく神とお会いできるからです。と訳しています。

 イエス様は、100%神であり、100%人となった唯一の特殊なお方です。
三一の神の中でも、そのようなありようをとったお方はイエス様だけです。

 イエス様が地上におられたとき、ガリラヤ、ユダヤ、サマリア、デカポリス、ツロ、シドン、その他の地に住んでいた人たちがイエス様を見たのです。
イエス様を見た人達の中には、祭司長もいれば、その他の祭司たち、役人たち、ローマ人たち、また、「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人たちや十字架上のイエス様をあざけった人たちもいました。
この人達は、心が清かったのでしょうか?

 イエス様が、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」と語られたとき、「見る」という語を、肉眼で見る、という意味で語られたのでしょうか?

 最後の晩餐のとき次のような会話がありました。
“1
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4
わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5
トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
8
ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9
イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです〔わたしのうちに住んでおられる父の命じるままに話しているのです。父は、わたしを通して、働きをなさいます(リビングバイブル)〕。
11
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい〔もし信じられないなら、わたしが行った力ある奇蹟を思い出してごらんなさい。そうしたら信じられるでしょう(リビングバイブル)〕。2017)と記されています。

 イエス様は、御父の御子であって御父ではありません。
それにも拘らずイエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」と言われたのです。
イエス様の姿が御父にそっくりであると、言うのでしょうか?

 「肉眼で見る」という発想から抜け出ないと、何が何だか分からなくなります。
新約聖書はギリシア語で記されていますが、イエス様が弟子たちに語られたときは、ギリシア語ではなくヘブライ語かアラム語であったことでしょう。
 ヨブ925に、ヨブの言葉として、「私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。」(2017)というものがあります。
「幸せを見ることはない。」とある中の「見る」とは、肉眼で見るということではないと思いますが、ヘブライ語原語をみると「ラーアー」とあり、原義は、見る、で、考える、経験する、会う、・・・等々の意にも用いられます。

 イエス様は、「わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。」とも語られました。

 イエス様の代わりに、父なる神様がいたとしたら、イエス様と同じ内容のことを語られたのです。      

 御父と子どもの関係の話の中に、放蕩息子とその父の話があります(ルカ1511-24)。
新約的に言うと、霊にあって新しく生まれさせて頂いて(新生させて頂いて)神の子どもとされたにも拘らず、親の心子知らずで、親の元を離れ、放蕩三昧をする、というようなものです。
その子供に対して、今日は帰ってくるかな、生きているかな、元気にしているかな、明日は帰ってくるかな、と子どもを思いやっているのが、父なる神様だというのです。旧約の神も新約の神も同じ神です。

 御父もイエス様も同じ内容の事柄をお話しされるのです。
しかし、理解できる人とできない人がいます。
神様は、愛に満ちた優しい言葉を語ることがあります。
神様は、愛と義に基づいた厳しい言葉を語ることもあります。
しかし、心が清くされないと、神様の真意を捉えることができないのです。

心をきよくしていただけるのは、主イエス様の血潮であり、神のことばであり、聖霊の働きです。
人の側では、悔い改めと信仰です。
それらが一つとなってきよくされていきます。
へブル1214には「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(新改訳2017)と記されています。

地上にあっては、心が聖くされると、誰でも神様を知ることor神様がどのようなお方であるかを体験する(経験する)ことが出来るようになるでしょう。
中には、天国を見せられて、イエス様を見た人もいますが、私の知る限りでは、父なる神様をはっきりと見た人はいないようです。
天に帰ってからは、私たちは直接神様にお会いすることが出来るのです。

 召天した霊たちは、御父の家、すなわち天の都エルサレムに住むのです。
イエス様は言われました。次のように記されています。
「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」と記されています。

 黙示録219-23(この時のキリスト者は霊の体も与えられています)には次のように記されています。
“9
・・・七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁〔霊の教会の総体(筆者挿入)〕を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。〔主が新天新地を創造された後の話です(筆者挿入)〕
11
都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった
12
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
13
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
15
また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
16
都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
17
また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
18
都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
19
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。
22
私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはイエス様を通して、「幸福(さいわい)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。」と語り、心が清くされるために必要なことを備えてくださり、この地上にあっては、あなたと交わりを持つことを体験させ続けてくださり、天に迎え入れてくださった後には、あなたの都、天のエルサレムに住まわせて頂けますこと、直接あなたを見させて頂けますことを感謝申し上げます。
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われているように地でも行われますように。
感謝と共に私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 9日 (日)

祝福を受け継ぐ人々

 箴言333を、
2017
は、悪しき者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。と訳し、
新共同訳は、主に逆らう者の家には主の呪いが、主に従う人の住みかには祝福がある。と訳し、
フランシスコ会訳は、主の呪いは悪人の家に留まるが、その祝福は正しい人の住まいに留まる。と訳し、
文語訳は、ヱホバの呪詛(のろい)は惡者(あしきもの)の家にあり、されど義者(ただしきもの)の室(いえ)はかれにめぐまる。と訳しています。

 「エホバの呪い」と文語訳にあります。
以前にも書きましたが、「エホバ」を、ヘブライ語を英語のアルファベットに変換して表記すると、「YHVWH」となります。ヘブライ語は子音字だけであり、母音は母音記号で表します。母音記号には、長母音、短母音、最短母音があり、また半母音と呼ばれるものもあります。「H」はハ行の場合と「―」と伸ばすしるしとして使われることがあります。VWは同じ字で共用します。
その結果、「エホバ」は、Yeをつけ、Hoをつけ、Vaをつけ、最後のHはーとすれば、「エホバ―」となり、「エホバ」になったのかな、と思います。
 ハレルヤの「ヤ」は、「YHWH」のYaをつけたものですから、私は、「YHWVH」を多くの学者が「ヤハウェ」と捉えている表現を用いています。しかし、ほかの読み方もできます。「ヤーウェ」、「ヤーヴェ」、etc.
ユダヤ人は、主の御名をみだりに唱えてはいけない、というところから「YHWVH」を「アドナイ」と読み替えています。実際には、「アドナイ」は「アドナイ」という単語があり、神に対して「主」、or(私の)「主」という意で使う語です。
 詩篇1101に、“主は私の主に言われた。”(2017)とあります。
最初の主は「YHWVH」、私の主の方は、「ADNY」(「A」はア行の子音字)で「ADN」(アドン)で、接尾辞に「私」(y)がつくので、「アドニor「アドーナーイ」となるのです。「アドーナーイ」(ADNYor「アドナイ」はおもに神の称号としての「主」、「(私の)主」に使われ、「アドン」は元首、主人、支配人、所有者、私の主等の意にも使われます。
詩篇11921に、しかし、神よ、私の主よ、あなたは、御名のために、私にみわざを行ってください。2017)とありますが、「神よ、私の主よ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤハウェ アドーナーイ」です。この箇所では2017は、ユダヤ人式なのでしょう。
新生したキリスト者は神の子どもであり、みだりにヤハウェの御名を唱えるわけではないので、私は「YHWH」の箇所を「ヤハウェ」としています。
以上は、或いは間違っている箇所もあるかも知れませんので、参考程度にしておいてください。

 今日のテーマは、「祝福を受け継ぐ人々」です。
一言で言うと、祝福を受け継ぐためには、
1.律法をすべて守ること
2
.キリスト・イエス様を心にお迎えすること(信じること)
のどちらかです。
 旧約時代にヤハウェ(主)を信じて歩んだ信仰者は、上記2と全く同じというわけではないのですが、ほぼ同じ祝福を受けます。

 新約時代(恵みの時代)にイエス様を信じさせて頂けた人たちは、イエス様を信じた時に新生させて頂きました(ヨハネ33.6・新共同訳、口語訳参照)。御父が霊の父です(ヘブル129)。新生した人は、神の子どもです(1ヨハネ31.2)。
新生させて頂いた集合体である霊の教会は、キリストの花嫁です(エペソ531.32)。

 イエス様は、バブテスマのヨハネについて、「まことに、あなたがたに言います。女〔神からではありません(筆者挿入)〕から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」(マタイ11112017)と語られました。
 バプテスマのヨハネは次のように語っています。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。
花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」(ヨハネ327-292017)と。→(黙示録194-7参照)

 ローマ623には、罪の支払う報酬は死である。(口語訳)と記されています。
イエス・キリスト様は、律法の呪いを一身に受けて死なれたのです(ガラテヤ310.13)。
それはすべての人のためでした(1ヨハネ22)。
とはいえ、その恵みを自分のものとするためには、イエス・キリストを信じる必要があります。
ローマ109.10には、
・・・あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。2017)と記されています。信じるというのは、イエス様を心にお迎えすることです(ヨハネ112、黙示録320)。

 使徒ペテロは次のように語っています。
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(1ペテロ39)と。

 黙示録19章には次のように記されています。
“1
その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
2
その裁きは真実で正しいからである。みだらな行い〔特に霊的に淫らな行い(筆者挿入)〕で、地上を堕落させたあの大淫婦〔本人が神の妻だというので「淫婦」(筆者挿入)〕を裁き、御自分の僕たち〔大患難時代の聖徒たちはイエスが主であると証しします(筆者挿入)〕の流した血の復讐を、彼女になさったからである。」
3
また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
4
そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」
 5 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。」
6
わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。
7
わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁〔恵みの時代の霊的教会{新生し霊の体を与えられた人たちの総体}(筆者挿入)〕は用意を整えた
8
花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
9
それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
10
わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(新共同訳)とあります。

 新生したキリスト者は、呪いを受ける人々ではなく、神の祝福を受ける人々です。
新生した人に悪いことが起きたとき、その人が、何かに呪われているというのは間違っています。
新生した人に悪く見えるようなことが起こっているのは、神からの矯正の為(ヘブル125-11)である場合や、福音宣教のためorキリスト者であるためという場合です。
後者の方は、天での報酬を豊かにもらえます(マタイ510-12)。
いずれにしても祝福されているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
祝福を受け継ぐために召してくださいましたことを感謝します。
「すべてのことを感謝せよ」とありますが、あなたに感謝しつつこの世の生活を送らせて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 8日 (土)

他者から攻撃を受けたとき

 新改訳2017の詩篇71-5(新共同訳等は2-6節)には次のように記されています。
“1
私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私はあなたに身を避けます。どうか、追い迫るすべての者から、私を救い、助け出してください。
2
彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、助け出す者もなく、さらって行かないように。
3
私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、もしも、私がこのことをしたのなら、もしも、私の手に不正があるのなら
4
もしも、私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら
5
敵が、私のたましいに追い迫り、追いつき、私のいのちを地に踏みにじるようにし、私の栄光をちりの中に埋もれさせてください。セラとあります。

 この詩篇の表題には、シガヨンの歌。ダビデによる。ベニヤミン人クシュのことについて主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に歌ったもの。2017)と記されています。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳等は、この表題の箇所を1節としています)

 「ベニヤミン人クシュのことについて」の「こと」と訳されている語のヘブライ語原語は「ダーバール」で、言葉、事柄、行為・・等の意があります。

 1-5節の内容を読むと、クシュではないのですが、ベニヤミン人シムイの言葉と行為を、私は思い浮かべます。
ここからは、ベニヤミン人クシュという人から離れて、ベニヤミン人シムイとダビデの話として進めていきます。
シムイとダビデとの事柄を知るためには、1サムエル15章から2サムエル16章までを読む必要があります(途中で飛ばしてよいところもありますが)。

 ダビデとダビデの子アブサロムの間には確執がありました。そこに至る経緯とアブサロムの反逆について知るためには、2サムエル11章から15章までを読む必要があります。

 さて、ダビデがエルサレムを後にして、アブサロムから逃げる途中で、ベニヤミン人シムイが次のような言動をしたのですが、この時のことがこの詩に読まれているのではないかと、私には思えてしますのです。
 2サムエル165-14には次のように記されています。
“5
ダビデ王がバフリムまで来ると、見よ、サウルの家の一族の一人が、そこから出て来た。その名はゲラの子シムイで、盛んに呪いのことばを吐きながら出て来た。〔シムイはサウル家の一族なので、ベニヤミン人です(筆者挿入)〕
6
彼は、ダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。兵たちと勇士たちはみな、王の右左にいた。
7
シムイは呪ってこう言った。
「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」〔サウルに変えてダビデを王としたのはヤハウェ(主)です(筆者挿入)〕
9
ツェルヤの子アビシャイが王に言った。
「この死んだ犬めが、わが主君である王を呪ってよいものでしょうか。行って、あの首をはねさせてください。」
10
王は言った。
「ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか。」
11
ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。
「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼に命じられたのだから。12 おそらく、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の心をご覧になるだろう。そして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」
13
ダビデとその部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと並行して歩きながら、呪ったり、石を投げたり、土のちりをかけたりしていた。
14
王も、王とともに行った兵もみな、疲れたのでそこで一息ついた。2017)とあります。

 ダビデは、シムイの言動に対して、10-12節に記されているような、とても物わかりの良いようなことを言っていますが、ダビデの心の中には、「シムイを赦さないぞ」という思いがあったのです。
そのことを窺(うかが)えるのは、ダビデがソロモンに語った遺言です。
1
列王記28-10節には次のように記されています。
“8
また、あなたのそばに、バフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。彼は、私がマハナイムに行ったとき、非常に激しく私を呪った。だが、彼は私を迎えにヨルダン川に下って来たので、私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にかけて、『おまえを剣で殺すことはない』と彼に誓った。
9
しかし今は、彼を咎のない者としてはならない。あなたは知恵の人だから、どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるかが分かるだろう。」
10
こうして、ダビデは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。2017)とあります。

 ここからは新約の時代の話に変わります。
イエス様は、「43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章・2017)と語られました。

 イエス様は、上記のように言われましたが、これは簡単なことではありません。
イエス様を信じて救われても、救われたキリスト者の多くの人が、直ちに「自分の敵を愛する」ことが出来るようになったかというと、そうではないと思います。

 私は、性急で易怒の性質(罪)をもって生まれてきたようです。
イエス様を信じさせて頂いて救われた後にもそれは変わりませんでした。
自分の意に反する他者の言動や行為に対して、「赦せない」という気持ちから幾年も解放されませんでした(「赦せるようにさせてください」と、よく祈ったであろうと思うのですが、昔のことなので、今はあまり思い出せません)。
しかし、ある日突然、道を歩いているときに、主が、「心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたを赦してくださったように、赦しなさい。」(エペソ432抜粋・新改訳第三版)という御言葉をかけてくださったのです。
これを聞いたときに、自然に涙が流れ、心の塊が解けていきました。
それから赦せるようになったのです。
自分の肉の努力でなしえなかったことを主が為さしめてくださいました。
自分の努力でも何でもない、主のわざでした。
 また、ある朝のデヴォーション時には、エペソ51.2の箇所から、1節と2節を逆にして、「愛のうちを歩みなさい。あなたは愛されている子どもなのだからね。」と語られたのです。
この時も、何だか心の塊が解け、涙が流れてきました。
自分の努力ではなく、主の御業でした。
ずーっと、祈ってはいましたが、自分で自分を変えることが出来たわけではありません。
魂が聖い状態にある時、霊からキリストの愛が流れ出します。
そのとき、この愛は、自分の愛ではない、と思えます。

 罪を赦され救いにあずからせてくださったことは、主の御業(みわざ)です。
神の子どもとなれたのは、主の御業です。
現代のような不安な世界においても平安でいられるのは主の御業です。
聖書の御言葉を分からせてくださるのも主の御業です。
主と共にある幸いの中を歩めるのも主のおかげです。
その他にも色々な主の恵みであふれさせてくださっておられます。
御父・御子・聖霊なる三位一体の神にとこしえに栄光と力とがありますように。
御父のみ前において、御子であり私たちの主であるキリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パウロは、
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11362017)と祈りました。

2022年1月 7日 (金)

救いと裁きはロトの日のよう

 ルカ17:24.28-30には次のように記されています。
“24 稲妻が閃いて、大空の隅から隅 まで照り輝くように、人の子の日にも、同じことが起こる。
28 ロトの時にも同じようなことが 起こった。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりなどしていた。
29 しかし、ロトがソドムから出て いったその日に、天から火と硫黄が降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
30 人の子が現れる日も、これと同じようになる。”(フランシスコ会訳)とあります。

 主の裁きの日は、一瞬のうちに始まるということです。
それは、キリストの空中再臨{キリストの花嫁(主の霊が内に住んでいるキリスト者たち)を迎えに来る時のこと}(エペソ5:21-32特に31.32)、及びそれに伴う霊の体の付与と、携挙(キリストの花嫁が天に引き挙げられること)が御父のご計画に基づいて行われた(1テサロニケ4:16.17)後に、地上は主の裁きの時代へと変化するのです(2テサロニケ2:3-7特に7)。世の人の統治の最後の時代であり、サタン(悪魔)によるこの世の支配の時代の最後です。サタンは、キリストの千年王国時代の最後にも牢から解き放たれ、その時代の諸国民を巻き込んで(サタンについて行く諸国民が多くいます)、主の都と聖徒たちに対して戦いを挑むのですが、主の都と聖徒たちを滅ぼそうと聖徒たちの陣営と、キリストの千年王国時代の都を取り囲んだところで、御父は天から火を降らせ、サタンに従った諸国民を焼き尽くします。サタンも最後を迎えます。今度は牢ではなく、火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙示録20:7-10)。

 ロトが住んでいた地は、性的に乱れきっていたのです。
ローマ1:18-28には、神であるヤハウェ(主)が改善する見込みのない悪しき人たちを放任したこと、その結果、神に立ち返らない人たちが、どのように罪から罪へと落ちていったかの一部分が次のように記されています。
“18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、
23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。”(新共同訳)とあります。

 創世記19:1-25に、ロトの救出と、ロトの救出後に、裁きが直ちに行われた内容が次のように記されています。
“1 二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、2 言った。
「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」
彼らは言った。
「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」
3 しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。
 4 彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、5 わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」
6 ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、7 言った。
「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。8 実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
9 男たちは口々に言った。
「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。
10 二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、11 戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。
 12 二人の客はロトに言った。
「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。
13 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもとに届いたので、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」〔人の姿をとっている二人の人はヤハウェ(主)から遣わされたものたちでした(筆者挿入)〕
14 ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、
「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。
 15 夜が明けるころ、御使い〔ヘブライ語原語「マルアク」(筆者挿入)〕たちはロトをせきたてて言った。
「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」
16 ロトはためらっていた。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は憐れんで、二人の客〔ヘブライ語原語「ハ エノシーム」(その男たち)で、「エノシーム」の単数形は「イーシュ」です(男・創世記2:23参照){筆者挿入}〕に、ロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。
17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた〔「その一人が言った」(2017)。「主」と訳されている語はヤハウェ(主)ではありません(筆者挿入)〕。
「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
18 ロトは言った。
「主〔ヤハウェではなくアドナイを使用、「アドナイ」には(私の)「主」の意もあります(筆者挿入)〕よ、できません。19 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。20 御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」
21 主〔その人(2017)。原語はヤハウェ(主)ではありません(筆者挿入)〕は言われた。
「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。22 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」
そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
 23 太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。
24 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はソドムとゴモラの上に天から、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもとから硫黄の火を降らせ、
25 これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。”(新共同訳)とあります。

 現代のキリスト者の概念では、ロトもひどい人であると思うことと思います。とても義人とは思えないと思う人が多いと思います。
ソドムの人たちの暴挙に対して、主に祈りもせず、娘を差し出そうとしたのですから。
ロトは、「皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。」(8)などと言っているのですから。

 ところが聖書は、「不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人〔「義人」(口語訳、第三版)〕、ロトを救い出されました。」(2ペテロ2:7・2017)と述べています。

 ロトが娘にした行為は罪だと思います。
しかし、ロトはヤハウェ(主)を信じていたのです。
その信仰の故に「義人」と認められていたのではないかと私は思います。
 私たちキリスト者も、主(キリスト・イエス)を信じている故に義人と認められています。
とはいえ、ロトと同じ罪ではないにしても、何らかの罪を犯すこともあるでしょう。
それでも神の霊を与えられているキリスト者は携挙されるのです。
義人と認められていますし、キリスト者の場合は、神の子どもであり、携挙のときは、花婿であるキリスト・イエス様が花嫁を迎えに来る時だからです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
御父が、御子に、御子の花嫁を迎えに行くよう命令されるときを楽しみにしています。
私たちは、思いにおいて、感情において、或いは言葉や行為において、あなたのみ旨に反すること、即ち不義を犯すこともありますが、キリスト・イエス様を信じた故に(信じさせて頂けた故に)義と認められていることを感謝します。
それだけではなく、あなたの子どもとしてくださり、万物の根源であり、至高の神であるあなたを「お父様」と呼ばせて頂ける者としてくださっておられますことを感謝します。
感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 6日 (木)

幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。

 マタイ57を、
文語訳は、幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。と訳し、
2017
は、あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。と訳しています。

 「憐れみ」と訳されている語のギリシア語原語は「エレイーモン」で、思いやりのある、心の優しい、温情のある、情け深い、同情的な、あわれみ深い等の意があります。

 あわれみ深い人・心の優しい人・温情のある人は、他の人からも心優しく接してもらえることがありますが、近頃では、気をつけないと詐欺にあう場合もあります。

 パウロは、終わりの日になると、キリスト教会に集う人の中にも、以下のような人たちも存在することになるでしょうと預言し、テモテに書き送りました。
 2テモテ31-5には次のように記されています。
“1
終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。
2
そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し〔「拝金的になり」(岩波訳)、「金銭を貪り」(フランシスコ会訳)〕、大言壮語し〔「ほらを吹き」(新共同訳)〕、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで〔感謝の気持ちをなくし(岩波訳)〕、汚れた者〔「不敬神」(岩波訳)、「神を汚す者」(フランシスコ会訳)、「不信心」(前田訳)〕になります。
3
また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず〔「節度がなく」(新共同訳)〕、粗野で〔「野蛮になり」(岩波訳)、「狂暴で」(フランシスコ会訳)」、善を好まない者になり、
4
人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり〔「驕り高ぶり」(フランシスコ会訳)〕、神よりも快楽を愛する者になり、
5
見かけは敬虔であっても〔「上辺(うわべ)は信心に熱心に見えるが」(フランシスコ会訳)〕、敬虔の力を否定する者になります〔「実際は信心の力を否定するものとなるでしょう」(フランシスコ会訳)〕。こういう人たちを避けなさい。2017)とあります。

 テモテへの手紙2の文章の流れからすると、教会について述べているのですが、教会に集う人々(一部の人々)が、そのようになっていくというのは、世の流れがもっとひどい状態であるので、それが教会にも入り込んでくるからではないかと思います。
自分自身のことを考えてみても、世の影響を受けているな、と思うようなところがあります。
日々、聖句に接することを得させて頂けるので、聖句を用いて主が矯正してくださるのです。

 主は元来、憐れみ深いお方ですが、あわれみ深い者に対して、主は特に憐れみ深いお方です。
もし、主が、慈悲深くなかったとしたら、地上に人は存在しなくなっていたかもしれません。
何しろ、生まれたときには、アダム由来の「罪」(単数形)or「罪の性質」をもって生まれてきたのですから(ローマ512717詩篇515、エペソ13)、生まれながらに創造神を畏れ敬うなどということはなかったでしょう。生まれながらに神を愛し、隣人を愛する人などという人を見たことがありません。

 ローマ21-12には、熟読すれば、震えあがるようなことが次のように記されています。
“1
ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
2
そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。
3
そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。
4
それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
5
あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。
6
神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
7
忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、
8
利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
9
悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
10
善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
11
神にはえこひいきがないからです。
12
律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。2017)とあります。

 結構厳しいことを記しているヤコブは、ヤコブの手紙に次のように記しています。
あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。2017)とあります。

 今日の聖書箇所は、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」というイエス様の御言葉です。
裁きの全権を委ねられているのはだれでしょうか?
それはエンマ大王ではなく、キリスト・イエス様です。
「・・父は、さばきを行う権威を子〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕に与えてくださいました。子は人の子〔ダニエル713.14参照(筆者挿入)〕だからです。」(ヨハネ5272017)とイエス様は語られました。

 神様は、義なるお方ですが、愛なるお方でもあります。
驚いてひれ伏すほどに、慈しみ深いお方、憐れみ深いお方です。
それ故、三位一体の神の第一位格であられる御父は、愛してやまない御子(三一の神の第二位格)を私たちに提供したのです。御子は地上にあってはイェシュア{ヤハウェ(主)は救う=救い主}という名を与えられ、日本では「イエス」ですが、すべての人のすべての罪をその身に負って、すなわち私たちの身代わりとなって、十字架上で罪の罰を受けられたのです。イエス様がそのようにしてくださったのは、御父を愛し、人を愛してくださっておられたからです。
ローマ623には、「罪の報酬は死です。」(2017)と記されています。

 イエス・キリストの十字架上の死によって罪の解決がなされたので、御父は、イエス・キリストを信じる者を救うこととしました(昔からの神のご計画でしたが)。
ローマ10章に次のように記されています。
“9
・・、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
12
ユダヤ人とギリシア人〔「ユダヤ人以外の人」の総称」として捉えることができます(筆者挿入)〕の区別はありません。同じ主〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵み〔ここでの「恵み」は「キリストによる救い」の意(筆者挿入)〕をお与えになるからです。
13
「主〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。2017)とあります。

 「イエス・キリスト様を信じる者は救われるのです。」
救いは、イエス・キリスト様を信じることだけです。他のものを混ぜてはいけないのです(ガラテヤ31-14)。
それ以外の方法によっては、創造主である神の裁きで無罪とされることはないのです。
使徒412には、「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(2017)と使徒ペテロは述べています。
神のみ旨に従って救いを求める人には、三一の神の第三位格の聖霊が働いてくださいます。
1
コリント123には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。
イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。」(マタイ772017)と語られました。
それ故、永遠のいのちに至る救いを求めれば、それをイエス・キリストによって得るのです。

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
憐れみ深い者としてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 5日 (水)

突然の恐怖

 箴言3:25.26には次のように記されています。
“25 突然の恐怖にも、悪しき者の騒乱が生じてもおののくことはない。
26 主があなたの傍ら〔直訳は「腰」(欄外注)、キリスト者は1コリント6:17、コロサイ1:27、2テモテ4:22です(筆者挿入)〕におられ、罠から足を守ってくださる。”(聖書協会共同訳)

 この箇所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“・・、主があなたとともにいて守ってくださるので、みじめな思いをすることも、悪者の悪だくみを恐れることもありません。”とあります。

 人は、突然の恐怖に襲われることがありますね。
地震、津波、地滑り、土石流、事故、事件、火災、暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、噴火、疫病、大量の放射線放出、間もなく死ぬであろうという死の宣告を受けたとき、黙示録には天変地異の預言もあります。

 世の中には、悪だくみをはかる人たちもいます。
そのターゲットにされる場合もあります。

 突然の恐怖に襲われるような事態になったとき、また悪だくみの対象にされたとき、そのときでも、主は私たちキリスト者の内に住んでくださっておられます。

 更には私たちに与えられた御言葉もあります。
御言葉に信頼することは主に信頼することです。
イエス様は、「神のことば」なのですから(ヨハネ1:1、黙示録19:13)。

 詩篇46:1-3、11には次のように記されています。
“1 神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。
2 それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。
3 たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。
11万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。”{2017(新共同訳、聖書協会共同訳等は2-4&12節)}とあります。

 詩篇91:1-9、14-16には次のように記されています。
“1 いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。
2 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に申し上げよう。「私の避け所、私の砦、私が信頼する私の神」と。
3 主こそ、狩人の罠から、破滅をもたらす疫病から〔仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。(新共同訳)〕、あなたを救い出される。
4 主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾、また砦。
5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。
6 暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
7 千人が、あなたの傍らに、万人が、あなたの右に倒れても、それはあなたには、近づかない。
8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
9 それは、わが避け所、主〔「ヤハウェ」、キリスト者にとっては「キリスト」(筆者挿入)〕を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである〔(1コリント1:30a・新改訳、岩波訳、etc.)(筆者挿入)〕。
14 「彼がわたしを愛している私を慕う(聖書協会共同訳)〕から、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。
15 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。
16 わたしは、彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」”(2017)とあります。

 主に喜ばれているキリスト者といえども、肉体の死を迎えることがあります。
それは、主の御旨に基づいて、地上から天に迎え入れて頂ける時です。
キリスト者は、主イエス様が語られた、「わたしを信じる者は死んでも〔肉体は死んでも霊は(筆者挿入)〕生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者〔霊(筆者挿入)〕はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25.26抜粋・2017)という聖句に該当する人々です。

 新生した霊(ヨハネ3:3.6、1ペテロ1:3)は永遠です。
肉体に関して、主は、地上の肉体を死なないように改善するという方法ではなく、定めの時に、霊の体を与える、という方法を取られるのです{1コリント15:52、49、44(新共同訳)、1テサロニケ4:16.17}。

 詩篇37:23.24をフランシスコ会訳は次のように訳しています。
“23 人の歩みは主によって正しく導かれ、その道はまっすぐにされる。
24 正しい者〔新約的には、「主を信じている者」(筆者挿入)〕は倒れかけても倒れ伏すことはない。主がその手を支えられるからだ。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私に対しても、あなたは、いくたびか危機的状況を通過させてくださいましたが、そのことを感謝します。
そのことによって、その都度、あなたがどの様に働いてくださるのかを体験させて頂きました。
その都度、あなたは、人には出来ない方法で対処してくださいました。
そのようにして、あなたに対する信頼を増し加えてくださいましたことを感謝します。
益々あなたを愛することを得させてくださり、あなたに信頼することを得させてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(イザヤ26:4・2017)
(「岩」には、「神」の意もあります。)

2022年1月 4日 (火)

病気や苦難或いは罪の中にある時にも、自分の心のありのままを話し、また願うことのできる主に在る者の幸い

 詩篇6篇はダビデの詩です。
ダビデは、主観的には辛い病、死を予感されるような病にかかったようです。
ダビデは、ヤハウェ(主)に祈りましたが、病が直ちに癒されるということはありませんでした。
病の癒しを祈っても、ヤハウェ(主)が病を癒してくださらないために、ダビデは精神的にも落ち込んでいきました。
また、ダビデは、病になった原因が自分の罪の故ではなかったのだろうかと考えていたようでもあります。しかしそのような思いの中にあってもダビデは、義でありつつも愛の豊かなヤハウェ(主)から慈しみを引き出すような祈りも忘れていませんでした。

 新改訳で表題として記されている箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、それを1節としていますので、新改訳と上記3書とは1節ずつのずれがあります。

 2-6節を、聖書協会共同訳で、7.8節をフランシスコ会訳で下記します。
“2
主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。
3
主よ、憐れんでください。私は病み衰えています。主よ、癒やしてください。私の骨はおののいています。〔骨と訳されている語のヘブライ語原語は「エツェム」で、骨の他、体や自分自身の意でも使われます。(筆者挿入)〕
4
私の魂は震えおののいています。主よ、いつまでなのですか。
5
主よ、帰って来てください。私の魂を助け出し、慈しみによって、お救いください。
6
死ねば、誰もあなたを思い起こすことはありません。陰府にあって、誰が感謝を献げるでしょう。
7
わたしは嘆き疲れ、夜ごと、涙で枕をぬらし、寝床を浸しています。
8
悲しみのあまり、目はかすみ、痛みのあまり、心は衰えました。とあります。

 2-4節には、
「主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。
主よ、憐れんでください。私は病み衰えています。主よ、癒やしてください。私の骨はおののいています。
私の魂は震えおののいています。主よ、いつまでなのですか。」とありますから、ダビデが主に祈っている内容からすると、ダビデはこの病の原因が、自分の罪によるのだろうと考えていたのかもしれないと思います。
病の原因として、罪からくるものもあるからです。

 しかし、罪とは関係なく、神様の許しの下、サタンが病をもたらす例もあります。その例としてヨブ記1章を読むと参考になります。
 個人の罪ではない感染経路から感染して発病する場合もあります。
「個人の」と書いたのは、人祖アダムが堕罪しなかったならば、病や死はアダムの末裔に入って来なかったからです。
 感染症でも、神様が禁止している性的関係によってもたらされるものもあります。
感染症と言っても個人の罪からなのかそうではないのかによって、神様に対する人間の側の対応は異なるものとなるでしょう。
 生活習慣病もあります。生活習慣病も発病機序を知っていながらそれを避けるようにしないで発病すれば罪に属するかもしれませんが、発病原因についての知識に触れることもないような環境に置かれて生活していたとしたら発病したとしても罪ではないでしょう。キリスト者の体は自分だけのものではなく、神の神殿(宮)とも言われています(1コリント619)。

 病気になった時、罪の結果としてものと、罪からではないものとに分けることが出来ます。罪からのものは、多くの場合、神様が悔い改めるチャンスとして与えてくださっておられるのだと思います。罪からのものではない場合には何も罪のあらさがしをする必要はないと思います。キリスト者といえども、霊の体を与えられるまでは病と死からは逃れられません。霊の体は永遠であり、強いものです(1コリント154354)。

 ヤハウェ(主)は、ダビデの祈りに応えてくださいました。
聖書協会共同訳の9b10節には次のように記されています。
“9
・・。主は私の泣く声をお聞きになった。
10
主が私の願いを聞き、主が私の祈りを受け入れてくださる。とあります。

 ダビデは、ヤハウェ(主)が応えてくださるまで祈り続けたのでした。
そしてダビデは、祈りに対するヤハウェ(主)の答えの確信を得たのかor癒されたのか、or「癒してあげるよ」と言われたのか、or「あなたの病は癒された」と言われたのか、ヤハウェ(主)の対応がどのようであったのかは分かりませんが、ダビデは回復したか、回復基調に入ったのでしょう。

 9a(フランシスコ会訳)と11節(聖書協会共同訳)には次のように記されています。
“9
すべて悪を行う者よ、わたしか ら離れ去れ。・・・。11 敵が皆、恥を受けておののくように。恥にまみれて瞬く間に逃げ帰るように。とあります。

 
「悪を行う者」、「敵」という語が指しているものは何でしょうか?
病魔かも知れませんし、ダビデを良く思わない者たちorダビデが王であった時の出来事であれば、王位を狙う者たちのことかもしれません。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
私達が病気になった時には、罪からなのか、罪からではないのか、或いは、サタンが神様に挑戦しているために引き起こされた巻き添えなのか、その他なにゆえであるのかを教えて下さり、適切に対処すし、祈ることが出来きますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 3日 (月)

選択

 創世記13章は次のように記されています。
“1 そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上った。妻と、所有するすべてのものと、ロトも一緒であった。
2 アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。
3 彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。
4 そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御名を呼び求めた。
 5 アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
6 その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。
7 そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
8 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
 10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。
12 アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。
13 ところが、ソドムの人々は邪悪で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対して甚だしく罪深い者たちであった。
 14 ロトがアブラムから別れて行った後、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のための祭壇を築いた。”(2017)とあります。

 アブラム(後のアブラハム)が、ヤハウェ(主)から、聖書に記されているところの最初の命令は、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1・2017)というものでした。
アブラムに対して、「あなた」という単数形の人称接尾辞が用いられています。「あなたがた」ではないのです。
しかし、アブラムは、甥のロトも連れてハラン{現シリアとトルコの国境の近く(創世記11:31.32)}からカナンの地に向かったのです(創世記12:5)。
アブラムは、ヤハウェ(主)のご命令どおりではなく、ロトも連れて行ったのでした。

 アブラムもロトも多くの家畜を飼っていました。
アブラムとロトの家畜の世話をしている牧者たちの間で争いが起こりました(7)。
争いの理由は、おそらく家畜の牧草問題であったのだろうと思います。
6.7節には、“その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。”(2017)と記されていますから。
アブラムが、自分の家族だけを連れてカナンの地に入っていったとしたらこのようなことは起こらなかったことでしょう。

 アブラムは、肉親同士が争うのを好まなかったでしょうし(8)、アブラムとロトが暮らしていた地は、カナン人とペリジ人(ヨルダン川の西側のカナン中部山岳地帯に住んでいた古代民族)が住んでいた地でした(7b)から、アブラムは、アブラムとロトの内紛によってカナン人やペリジ人に攻め込まれることをも恐れたのかも知れません。

 アブラムはロトに別れて住むことを提案しました(9)。
そして住むべき地の選択の主導権をロトに与えたのでした(9)。
アブラムは、ヤハウェ(主)のご命令によってカナンの地に来たので、ヤハウェ(主)の祝福と導きがあると信じていたのではないかと思います。
創世記12:1-3には次のように記されていましたから。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」”(2017)と。

 さて、ロトは、ヨルダンの低地全体を選んだのです(11)。
ヤハウェ(主)と直接繋がっていたのはアブラムでした。
ロトはこれ迄アブラムについてきたのです。
ロトにとっては、初めての大きな決断であり、その心にあるのは、ヤハウェ(主)との関係よりもこの世の富であったのではないかと思います。
10節には、“ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。”(2017)と記されています。
しかし、その地にロトが行ってみると、その地の住民は、邪悪で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対して甚だしく罪深い者たちでした(13)。聖書を読み進めると、ロトはその地の住民の悪に心を痛めながらも(2ペテロ2:7)、それでもロトはその地に住んだのです。他の地へと移動することはなかったのです。強制的に御使いたちに移動させられるまでは(創世記19:15-22)。

 一方アブラムの方は、これまでヤハウェ(主)がカナンの地へと導いてくださったのですから、そのままカナンの地に住みました(12)。
カナンの地は、ヤハウェ(主)がアブラムに与えた地であったのです。
ヤハウェ(主)は、アブラムに次のように言われました。
「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」(14b-17節・2017)と。

 この御言葉を頂いた後、アブラムはヘブロンに移動し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住みました。そして、そこにヤハウェ(主)のための祭壇を築き(18)、礼拝したのです。

 キリスト者の国籍は天にあります(ピリピ3:20)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
この世のものではなく、自分の考えでもなく、あなたの御命令を選び取っていくことの重要性を教えてくださり感謝します。
あなたは、生まれながらの古き人をキリスト共に十字架につけてくださったのですから、その信仰に立ち続け、常にあなたのみ旨の内を歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。”(ガラテヤ5:24・新共同訳)
“私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。”(ローマ6:6・2017)

2022年1月 2日 (日)

祝福されています、義に飢え乾く人たち、その人たちは満たされます

 マタイ5:6を、
文語訳は、“幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。”と訳し、
2017は、“義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。”と訳し、
リビングバイブルは、“神の前に、正しく良い者になりたいと心から願っている人は幸いです。そういう人の願いは完全にかなえられるからです。”と意訳しています。

 「義」と訳されている語のギリシア語原語は「ディカイオスネー」で、原義は、(性質や行為における)公平、無私無欲、公明正大等の意のようです。
「ディカイオスネー」は、具体的には、(キリスト教の)「義認」を意味します(ローマ3:24は、この原語の動詞形です)。
「ディカイオスネー」にはまた、righteousness(廉直, 高潔;公正, 正義)の意があります。(Strong辞書を参照)

  ローマ3:24には、“ キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価(あたい)なしに義とされるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ローマ3:24を、リビングバイブル旧版は、“ けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。”と、意訳しています。

 当たり前のことですが、イエス様が、マタイ5:6の御言葉を語られたのは、十字架にかかられる前でした。

 ガラテヤ3:10-14には次のように記されています。
“10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。”(新共同訳)

 ガラテヤ3:10-14をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“10 律法の行いに頼って救われようとする者は、神にのろわれます。なぜなら、聖書には、「神の律法の書にあることばを一つでも破る者は、のろわれる」(申命記27:26)とはっきり書いてあるからです。
11 したがって、律法によってはだれ一人、神の恵みを受けることはできないわけです。神の前で正しい者と認められる道は信仰による以外にない、と神様は言っておられます。預言者ハバククが、「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4)と語ったとおりです。
12 この信仰による道は、律法の行いによる道とはなんと違うことでしょう。律法による道は、律法を一つ残らず完全に守ることによって救われる、と教えているのですから。
13 しかし自分の悪い行ないのために、私たちが受けなければならないはずののろいを、キリストはご自分の身に引き受け、私たちを律法の呪いから救い出してくださいました。聖書に、「木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である」(申命記21:23)と書いてあるからです。
14 神様は、アブラハムへの約束と同じ祝福を外国人にも与えておられます。そして、私たちは信仰によって約束の聖霊を受けるのです。”とあります。

 ガラテヤ5:4には、“律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。”(2017)と記されています。

 ガラテヤ5:4をリビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
“ もしあなたがたが、おきてを守ることによって、神様への負債を帳消しにするつもりなら、キリスト様は、あなたがたにとって全く無意味な存在です。あなたがたは、神様の恵みから、すべり落ちてしまったのです。”とあります。

 イエス・キリスト様を信じる信仰によって救われたのに、いつの間にか、信仰だけではなく行いによって義とされよう、という状態になりかねないのが人の弱さなのかな、と思います。

 すべてにおいて無意識のうちに、義なる行いを行えるようになるのは、黙示録19:8の箇所以後ではないかと思います。
だからと言って、放縦に走って良いのではありません。
神様はペテロの手紙を通して、
「以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」(1ペテロ1:14-16・2017)と語っておられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
なんと有り難いことでしょう。あなたのご計画とイエス・キリスト様の贖いは。
大いなる感謝をささげつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 1日 (土)

日々聖書を読み、主に信頼することの大切さ

 箴言3:1-7には次のように記されています。
 2017は、
“1 わが子よ、私の教え〔ヘ原語「トーラー」(筆者挿入)〕を忘れるな。心に私の命令〔ヘ原語「ミツヴァー」(筆者挿入)〕を保つようにせよ。
2 長い日々と、いのちと平安の年月が、あなたに増し加えられるからだ。
3 恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。
4 神と人の前に好意を得、聡明であれ。
5 心を尽くして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
7 自分を知恵のある者と考えるな。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れ、悪から遠ざかれ。”と訳し、
 口語訳は、
“1 わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。
2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
4 そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。
5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。”と訳し、
 新共同訳は、
“1 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。
2 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。
3 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。
4 そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。
5 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
7 自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。”と訳しています。

 1.2節は、主の教えを守ると、命の年月、生涯の日々は増し、平安が与えられる(2)と教えてくれています。

 新約的にはどう考えたら良いのでしょう。
主の教えを守ることが出来るようになっていくのは、イエス様の救いにあずかった後のことです(エペソ2:8-10)し、完璧に、というならば天での婚礼の後になると思います(ヤコブ2:8-10、黙示録19:8)。
 肉体を持った人で律法をすべて守った人はイエス・キリスト様ただ一人だけです。イエス様が罪を犯されなかった故に、イエス様は、私たちの罪を引き受けて贖いの業を為すことができたのです。

 イエス様を信じると(イエス様を信じさせて頂くと)、命の年月、生涯の日々は増し、平安が与えられる(2)という聖句の内容を越えて、永遠のいのちを与えられ、キリストの平安を頂けます(ヨハネ14:27)。
主が与えてくださる、という素晴らしいものを受け取るために必要なのは信仰です。

 箴言3:3の前半部分を
 2017は、“恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。”と訳し、また新共同訳も同じような意で訳し
 第三版は、“恵みとまことを捨ててはならない。”と訳し、また口語訳、文語訳、フランシスコ会訳も同じような意で訳し、リビングバイブルも似たような意で、“いつも正しい生活をし、人には親切にしなさい。”と訳し、
 聖書協会共同訳は、“慈しみとまことがあなたを棄てることがない。”と訳しています。

私が見ているギリシア語聖書はTRですので、それによると、新改訳第三版、口語訳、文語訳、フランシスコ会訳、リビングバイブル訳のように訳せると思いますが、異なる底版からの翻訳では異なるのでしょう。

 箴言3:3の後半部分は、“それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。”(2017)となっていますから、小生としては、新改訳第三版タイプが良いのではないかと思います。

 リビングバイブル訳は、この箇所を、“いつも正しい生活をし、人には親切にしなさい。この二つを心から行えるように、しっかり身につけなさい。”と意訳しています。

 恵みとまことに満ちておられた方は、イエス様です(ヨハネ1:14)。
内におられるイエス様(コロサイ1:27)が輝き出てくださるように、私たちのたましいが整えられれば、私たちからも恵みとまことが流れ出ることでしょう。

 箴言3:4を新改訳は、“神と人の前に好意を得、聡明であれ。”と訳しています。おそらく接続詞の「ヴェ」を「そして」の意として採用したのでしょう。
同じ個所を、文語訳、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等は、おそらく接続詞の「ヴェ」を「そうすれば」の意として採用したのでしょう。

 3.4節を新共同訳は、
“慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。〔いつも正しい生活をし、人には親切にしなさい。この二つを心から行えるように、しっかり身につけなさい。(リビングバイブル)〕
そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。”と訳しています。

 6節の接続詞「ヴェ」の訳し方が、2017と第三版、新共同訳、口語訳、文語訳、フランシスコ会訳では、前述の「ヴェ」の訳し方と同じように異なります。

 新共同訳は、5.6節を次のように訳しています。
“心を尽くして主に信頼し〔とことん主に信頼し(リビングバイブル)〕、自分の分別〔「自分の聡明さ」(フランシスコ会訳)、「自分の悟り」(第三版)、「自分の知識」(口語訳)〕には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
日々聖書の御言葉に触れ、とことん主に信頼して歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

謹賀新年

 頌主

 謹んで新年の御喜びを申し上げます。

 主が、正月とせよ、と言われたのは、過越の祝われる月でした(出エジプト12:1-14)が、日本の恒例をも考え、1月1日に、新年のご挨拶を申し上げます。

 この年も、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださっておられます主が、お一人お一人に豊かな恵みを与えてくださり、主が、あなたを支え、あなたを守り、あなたを導き、あなたを祝福し、あなたに平安を与えてくださいますように。

 本年も宜しくお願い申し上げます。

              在主

 

2021年12月31日 (金)

主に信頼し続けて歩む

 詩篇5篇を読むと、ダビデがこの詩を書いたとき、朝明けに主との交わりを持っていたことが分かります。
1-3節には次のように記されていますから。
“1 私のことばに耳を傾けてください。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。私のうめきを聞き取ってください。
2 私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王、私の神、私はあなたに祈っています。
3 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、朝明けに私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。”(2017)とあります。

 起床時間とは関係なく、私たちは、起きたら、先ず主との交わりの時間を持つことが大切ですね。

 義なる神であるヤハウェ(主)は、決して罪を見逃すことなく、罪を憎み、罪を行う者を滅ぼす、ということが、4-6節を読むと分かります。
4-6節には次のように記されていますから。
“4 あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。
5 誇り高ぶる者たちは、御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行う者をすべて憎まれます。
6 あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は人の血を流す者や、欺く者を忌み嫌われます。”とあります。

 個々人に罪のリストを作ってもらうとしたら、すべてが同じという状況にはならないでしょう。
日本の大部分の人は、「イエス・キリストを信じないことは罪である」(ヨハネ16:9)などと考えることはないでしょう。

 また、自分の力で自己実現して輝くことは良いことだ、と多くの人は思うでしょう。
5節の、「誇り高ぶる者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーラル」で、その意味の中には、輝く者、自慢する者、誇る者、・・・等の意があります。
神によって立てられた人が、人から賞賛されたときには、その賞賛or栄光を主に帰するでしょう。栄光は主のものだからです。
詩篇29:1.2には次のように記されています。
“1 力ある者の子らよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。栄光と力を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。
2 御名の栄光を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。聖なる装いをして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にひれ伏せ。”(2017)とあります。
1節の、「力ある者の子らよ」という箇所を、口語訳は「神の子らよ」と訳していますが、ヘブライ語聖書を見ると、どちらにも訳せることが分かります。
2節の、「聖なる装いをしてヤハウェ(主)にひれ伏せ。」という箇所は、ヘブライ語聖書を見ると、「聖なる装いのヤハウェ(主)にひれ伏せ。」とも訳せるので、新共同訳のように「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」とも訳せます。

 キリスト者の「聖なる装い」について
1コリント1:30に、“あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。”と記されているように、御父は、私たちをご覧になられるとき、キリストを通して見てくださいますから大感謝です。
とはいえ、贖われた者の立場に甘えることなく、実際面においても、「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」(ローマ13:14・2017)とくぎを刺されています。

 詩篇5:11.12(新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳等は12.13節)を
 2017は、“どうか、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちが、あなたを誇りますように。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のように、いつくしみでおおってくださいます。”と訳し、
 新共同訳は、“あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。”と訳し、
 リビングバイブルは、“しかし、すべて神を信頼する者には、喜びを与えてください。神がかばってくださることを知って、彼らがいつまでも喜びの声を上げますように。神を愛する人たちを、幸福にひたらせてください。神は心から信じる者を祝福します。主よ、あなたは愛の盾で囲みます。”と意訳しています。

 キリスト者は、イエス・キリスト様を信じたことにより(信じさせて頂けたことにより)、神の前に義人(正しい人)とされた人たちです。
義人は信仰によって生きるのです。
ヤハウェ(主)はハバククに、「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4・2017)と語られました。
「その信仰」と訳された箇所は、「彼の信仰」とも訳せます。
キリスト者が義とされたのは、自分の行いではなく、イエス・キリスト様を信じたからです。
イエス・キリスト様は、神のひとり子の御子であり、救い主であり、天地の主です。
私たちは、如何なる時にも、イエス様を信じ続けて歩むのです。
ローマ1:17には、“福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。”(2017)と記され、
その箇所を新共同訳は、“福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、イエス様を愛し、信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月30日 (木)

神のご計画と働きの一部

 創世記12:1-5には、
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。”(2017)とあります。

 献身者としての召命、宣教師としての召命に、この箇所の御言葉をかけられた方もいるかも知れません。
今日は、キリスト者全員に対するものとして捉えて考えてみたいと思います。
キリスト者は、それぞれ一人一人が、恵みによって、他のものから切り離されて、神の国へと入っていったのです(神の国へと入れて頂いたのです)。
これは、人の熱意や、意志や計画によるものではなく、神の計画であり神の業です(エペソ1:4.5、ヨハネ1:12、6:26)。

 創世記12:1には、アブラム(後のアブラハム)に、ヤハウェ(主)が、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じた御言葉が記されていますが、ヤハウェ(主)がこのようにアブラムにお話になったのは、初めてではありませんでした。創世記には記されていませんが、聖霊に満たされて語ったステパノの証言によると、次のように記されています。
使徒7:3.4には、“3 『あなた〔アブラム(筆者挿入)〕の土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。4 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されました”とあります(2017)。

 「カルデアのウル」というのは、考古学者たちの発掘によると、“古代メソポタミア南部の都市。現在のイラク南部、バグダード南東約350キロメートルにある遺跡で、テル・ムカイヤル(瀝青(れきせい)の丘)とよばれている。”(日本大百科全書のウルの項抜粋)場所ということです。

 アブラムの出自については、創世記11章と1歴代誌1章に記されています。
アダムからアブラムまでの系図は、歴代誌(2017訳)の方の名前の表記を基にすると次のように記されています。
“アダム→セツ→エノシュ→ケナン→マハラルエル→ヤレデ→エノク(死ぬことなく天に移された人)→メトシェラ→レメク→ノア(箱舟を造ったノア)→セム→アルパクシャデ→シェラフ→エベル→ペレグ→レウ→セルグ→ナホル→テラ→アブラム(後のアブラハム)”とあります。

 使徒7:2-4には、
“2 するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、
3 『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。
4 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されました”(2017)とありますが、創世記11章にそのことは記されておらず、創世記11章の方は、
“31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。”(2017)と記されています。

 そして、父の死後、再度、ヤハウェ(主)は、アブラムに、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1・2017)と語られたのです。

 アブラムは、神であるヤハウェ(主)から最低2回の声かけを頂いてカナンの地に入っていったのです。

 アブラム(後のアブラハム)の最初は、信仰の父と呼ばれるようなものではなく、アブラムもまた、ヤハウェ(主)が時間をかけて信仰を成長させてくださったことを知るのです。イエス様を信じたからと言って一足飛びに信仰の人になるのではありません。主と共に歩もうと思いつつも、主に従えたり、従えなかったり、また悔い改めて主に従うというようなことを繰り返しながら、主に在って成長させて頂くのです。
成長させるのは神ですから(1コリント3:7)。

 新生させて頂いた人達は、御父の子どもです(ヨハネ3:3.6、1ヨハネ3:1.2、1ペテロ1:3)。
御父は、根気よく、新生したキリスト者を成長させてくださるのです。
健全な成長を遂げるためには、栄養も必要です。
栄養を取る霊的食物は既に用意されています。
それは聖書です。
乳幼児の頃は、御言葉の乳(1コリント3:2、1ペテロ2:2)が必要です。
しかし、成長するにつれて堅い霊の食物も必要となります(ヘブル5:13-6:3)。
パウロはコリントの信徒たちに、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(1コリント11:1・新共同訳)と語りました。
しかし、乳幼児のだれもが、いきなりパウロのように、キリストを見倣うようになれるわけではありません。

 ユダ書には、「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」(20節・2017)と記されています。

「聖霊によって祈りなさい」という箇所を直訳すると、「聖い霊の中で祈りなさい」となると思います。
聖霊{(真理の霊)ヨハネ14:17}は、聖書の執筆者に働いて聖書を書かせたのです(2テモテ3:16)。
御霊によって祈る(御霊の中で祈る)ときは、神が与えた下さった御言葉から外れることはないでしょう。肉に従って祈りましょう、という言葉は聖書の中にはありません。
また、みことばを悪魔悪霊のように悪用して用いる(一例として、マタイ4:6)ことの無いよう注意する必要があると思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがまだ存在する以前に、あなたのみ旨の中で、あなたの愛によって、ご計画が立てられていたというあなたの遠大なご計画性と実行力に驚嘆し、御名をほめたたえます。
イエス様がキリストであり、神のひとり子の御子であり、救い主であると、私たちが信じさせて頂けたのは、神の業であることを覚えます。
あなたは、私たちを新生させた後も、一人一人に応じて成長させてくださっておられますからありがとうございます。
三一の神様の御名がほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月29日 (水)

祝福されています。穏やかな人、謙遜な人

 マタイ5:5を
文語訳は、“幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。”と訳し、
2017は、“柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。”と訳しています。

 「柔和な」、「へりくだった」と訳されている語のギリシア語原語は「プラウス」で、どちらの意もあります。
「プラウス」の原義は、mildで、人について用いるときは、穏やかな、優しい、の意になります。そして、言外の含みとして、謙虚な、の意があります。普通は、おとなしい、柔和な、温和な、と訳されます。

 リビングバイブルは、“柔和で高ぶらない人は幸いです。全世界はそういう人のものだからです。”と訳しています。
リビングバイブルの訳を読むと、該当する人は、神が人となられたイエス・キリスト様だ、と思えます。
マタイ11:29に、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、・・・・」(2017)とイエス様の御言葉が記されていますので。

 イエス様は、キリストの千年王国で地のすべてを、エルサレムから統治なさるのです(イザヤ2:3、エゼキエル48:8-10、21.22)。各地の統治者を幾人も立てますが(黙示録20:4)。

 私が確信の持てない事柄があります。
それは、異邦人キリスト者は、キリストの千年王国時代には、地にいて、主の下で、イスラエル以外の地を、それぞれ統治するのか、それとも天のエルサレムにいるのか、ということです。

 キリストの千年王国時代のイスラエルの地は、イスラエルの12部族の人たちが住んでいます。12弟子の人たちがイスラエル各部族の人たちを統治することは不思議ではありません。
 ルカ22:28-30に次のように記されていますから。
「28 あなたがた〔使徒たち(筆者挿入)〕は、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
30 あなたがた〔使徒たち(筆者挿入)〕は、わたしの国〔キリストの千年王国(筆者挿入)〕でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(新共同訳)とります。

 キリストの千年王国時代は、世界の中央がエルサレムであり、そしてその周囲にイスラエル領があります(エゼキエル47.48章)。イスラエル以外の国々の民、すなわち諸国の民は、ほかの地に住みます。
 ゼカリヤ14:16-19には、
“16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者〔世の終わりの大患難時代を生き残った者(筆者挿入)〕はみな、毎年、万軍の主〔ヤハウェ。この時代は特にキリスト・イエス(筆者挿入)〕である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
17 地上の諸氏族のうち、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。
18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が打つ疫病である。
19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰〔干ばつと疫病による刑罰(筆者挿入)〕となる。
20 その日、馬の鈴の上には「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への聖なるもの」と刻まれ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。
21 エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。その日、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)の宮にはもう商人がいなくなる。”(2017)と預言されています。

 キリストの千年王国時代の前に、大患難時代があり、それに突入する前にキリスト者の体は、永遠に滅びることのない霊の体に変えられています。従って、飢えや疫病から害を受けることはありませんし、何よりもキリスト者はキリストの花嫁です。
 キリストの千年王国時代の預言は数多くありますがその中から詩篇48篇を下記しておきます。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。
2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
3 神はその都の宮殿で、ご自分を砦として示された。
4 見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。
5 彼らは、見ると驚き、おじ惑い、慌てた。
6 その場で震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが。
7 東風によって、あなたはタルシシュの船を砕かれる。
8 私たちは聞いたとおりを見た。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)の都、私たちの神の都で。神は都をとこしえに堅く立てられる。 セラ
9 神よ、私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。
10 神よ、あなたの御名と同じく、あなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。
11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山が喜び、ユダの娘たちが楽しみますように。
12 シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。
13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”(2017)と記されています。

 さて、マタイ13:43に、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」(2017)とイエス様は語られ、
また、ダニエル12:3には、“悟りある者たちは大空の光のように輝き、多くの人々を義に導いた者たちは、星のようにとこしえに光り輝く。”(聖書協会共同訳)と預言されています。
「彼らの父の御国で」と言われている「彼ら」とは「神の子どもたち」を指しています(1ヨハネ3:1.2)。
「悟りある者たちは大空の光のように輝き」とありますが、箴言9:10には、“主を恐れる〔畏れる(新共同訳)〕ことは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。”(口語訳)とあります。

 父の御国はキリストの千年王国の地上部分ではなく、天にあります。
イエス様は、「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:2.3・2017)とも語られました。
私たちの天における住まいは、父の家のどこかです。
イエス様は、現代でさえ、天の父の右に座を占めておられる(マルコ16:19、ローマ8:34)と共に、霊において、私たち新生した者の内に住んでくださっておられます(1コリント6:17、コロサイ1:27)から、キリストの千年王国時代に、天におられ、地にもおられるということは可能なのでしょう。

 キリストの千年王国時代、私たち異邦人キリスト者は天に住むのでしょうか、地に住むのでしょうか、あるいは天地を往来するのでしょうか?
主は未だ、私に確信を持たせてくださっておられません。従ってはっきりしたことを言えないのです。
しかし、いずれにしても、いつもイエス様と一緒なので満足です。
1テサロニケ4章には、
“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
とこしえにイエス様と一緒にいられますから、キリスト・イエス様の御名の中で大いなる感謝をささげます。
アーメン。ハレルヤ!

2021年12月28日 (火)

知恵と知識

 箴言21-102017は次のように記しています。
“1
わが子よ。もしあなたが私のことば〔ヘ原語「エーメル」(筆者挿入)〕を受け入れ、私の命令〔ヘ原語「ミツバー」(筆者挿入)〕をあなたのうちに蓄え、
2
あなたの耳を知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕に傾け、心を英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕に向けるなら、
3
もしあなたが悟り〔ヘ原語「ビーナー」(筆者挿入)〕に呼びかけ、英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕に向かって声をあげ、
4
銀のように、これを探し、隠された宝のように探り出すなら、
5
そのとき、あなたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔ヘ原語「イルアー」(筆者挿入)、畏れる(聖書協会共同訳)〕ことをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕を与え、御口から知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕と英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕が出るからだ。
7
主は正直な人〔ヘ原語「ヤーシャル」(筆者挿入)、正しい人(聖書協会共同訳)〕のために、すぐれた知性〔ヘ原語「ツーシーヤー」(筆者挿入)〕を蓄え、誠実に〔ヘ原語「トーム」(筆者挿入)、完全な道を(筆者挿入)〕歩む人たちの盾となり、
8
公正の〔ヘ原語「ミシュパート」(筆者挿入)、裁きの(筆者挿入)〕道筋を保ち、主にある敬虔な人〔ヘ原語「ハーシード」(筆者挿入)、(主に在る)「忠実な人」(聖書協会共同訳)〕たちの道を守られる。
9
そのとき、あなたは義〔ヘ原語「ツェデク」(筆者挿入)、正義(聖書協会共同訳)〕とさばき〔ヘ原語「ミシュパート」(筆者挿入)〕と公正〔ヘ原語「メイシャール」(筆者挿入)、公平(聖書協会共同訳)〕を、またすべての良い道筋をわきまえ知る〔ヘ原語「ビーン」(筆者挿入)、見きわめられるようになる(聖書協会共同訳)〕。
10
知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕があなたの心〔ヘ原語「レブ」(筆者挿入)〕に入り、知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕がたましい〔ヘ原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕に喜びとなるからだ。とあります。

 知恵には、良い知恵と悪い知恵があります。
神であるヤハウェ(主)から出た知恵とヤハウェ(主)に従わないor敵対するところから出た知恵とがあります。
ヤコブ115に、そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。2017)という聖句があります。
この箇所を、岩波訳は、その知恵は上から降って来たものではなく、地上的で、生得的で、悪魔的なものである。とあり、
フランシスコ会訳には、このような知恵は、上から下っ てくるものではなく、地上的なもの、この世の命に生きるもの、悪魔的なものです。とあります。

 上記の箇所の前後の箇所を記すと次のようになっています。
“13
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
14
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。
15
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。
16
ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
17
しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。
18
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。2017)と記されています。

 上から、すなわち主なる神様からの知恵の性質は、17節に記されているように、きよいもの、平和で、優しく、協調性のあるもの、また、あわれみと良い実に満ち、偏見や偽善のないものであると教えてくれています。 

 パウロは、コリント人(信徒)への手紙の中で、この世の知恵と神の知恵の違いを次のように語っている箇所があります。
“1:20
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
23
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
24
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。2017)と記されています。

 神様の知恵の一つを1コリント130は、次のように教えてくれています。
・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)と記されています。
神のひとり子の御子が、肉体を纏い、十字架上において、私たちのために贖いを成し遂げ、そのことによって、私たちを義とし、聖とするということは、父なる神の知恵であったのです。

 私自身の記憶を遡ってみると、肉において知識や知恵を追い求めていた期間が長かったことを覚えます。そして、箴言210に、知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕がたましい〔ヘ原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕に喜びとなるからだ。とあることに驚嘆します。
ネフェシュ(たましい)は生まれたときからのものであり(創世記27の原語)、イエス様を信じさせて頂いたときにたましいは救われたのです(1ペテロ19)。救われたからこそ、明確にイエス・キリストが救い主であり、主なのだと信じているor信じることができているのです。
イエス様に救われてからも、たましいの考え方は、肉的なそれまでの生き方、考え方に染まっています。きよめられ続けることによって主のかたち、神の御性質にあずかる者とされていくのです(2コリント3182ペテロ14)。

 知恵についても、肉的なもの、悪魔的なものがあるということを前述しました。
上からの知恵と知識とは、新生させて頂いた霊によって先ず把握するものなのでしょう。
ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。1コリント1282017)と記されていますから。

コロサイ2:3には、“・・キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(2017)とあります。

 私たちは、主イエス様と共に歩むことによって、また主イエス様に教えを乞うことによって、また主イエス様の行動や言葉を見聞きすることによって、主イエス様からの知恵を少しずつ得ることができます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの恵みを感謝します。
日々主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月27日 (月)

正しいものを祝福してくださる主

 詩篇512を、
2017
は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいます。と訳し、
 新共同訳は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。13節)と訳し、
 口語訳は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。と訳し、
 リビングバイブルは、神は心から信じる者を祝福します。主よ、あなたは愛の盾で彼らを囲みます。と訳しています。

 「正しい者」(2017、口語訳)、「従う人」(新共同訳)、「心から信じる者」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、Strong辞書には、just(正しい、公正な), lawful(合法の、法を順守する), righteous (man){正義の、公正な、正しい(人)}、の意があると記されています。

 詩篇5篇はダビデの詩ですが、ダビデは、詩篇5篇で、自分をどの様な正しい人であると言っているのかをピックアップしてみます。

2
節には、“私の王、私の神、私はあなたに祈っています。”(2017)とあります。
リビングバイブルは、その箇所を、“王なる神よ、私はあなた以外のだれにも、決して祈ったりしません。”と意訳しています。

7
節には、・・、私は、あなたの豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。とあります。
この箇所をリビングバイブルは、・・、私は、憐れみと愛に守られて、神殿へまいります。心の底から畏れかしこんで神を礼拝します。と訳しています。

 ダビデは、正しい人とは、先ず、神を愛し、神を畏れかしこみ、神ヤハウェ(主)にのみ祈りを献げ、礼拝するものである、と捉えていたのではないかと思います。
神を愛し、神を信じているものは、神のおことばを守りますから、意志的に悪い行いをするということはないでしょう。

 新約(新契約)の時代にあって、正しい人(義人)とはどのような人を言うのでしょう。
口語訳のローマ人への手紙3章には次のように記されています。
“20
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
21
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

 新契約において、義人(正しい人)とは、イエス・キリストを信じた人、すなわちイエス様を心にお迎えした人のことです。
多くのクリスチャンが、私は義人ではない、と言います。
しかし、神の法廷にあっては、義人であると判断されるのです。
それは、その人が、イエス様を心にお迎えしたからです。
そのような人に対して、1コリント130は次のように述べています。
フランシスコ会訳は、 神のお陰で、あなた方はキリス ト・イエスと一致しているのです。このキリスト・イエスは、わたしたちにとって神からの知恵、つまり、わたしたちを義とし、聖なるものとさせ、また、罪から贖う方となられたのです。”と訳し、
2017
は、 ・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。と訳しています。

 自分自身の一言一言の言葉や一つ一つの行動が義人としてふさわしい、という状態であれば、それは素晴らしいことですが、キリスト者は信仰によって義とされたのです。主と共に歩んでいれば、言動は主が矯正していってくださいますし、気がついたら変えられていたということもあるのです(1ヨハネ17)。
まず第一に大切なことは、父なる神様が、イエス様を信じた人を義人(正しい人)と認めてくださった、ということを100%認めること(信じること、受け入れること)です。
そうしないと、神様を嘘つきとしてしまうことになります。
「義人の祈りは、大いに力があ」る(ヤコブ516・口語訳)のですから、神様が与えてくださった御言葉を100%信じないことは大損です。
祈りが聞かれる条件として、神の御心に従った祈り、ということも非常に大切です(1ヨハネ514)。

 イエス様によって贖われた義人(正しい人)は、三一の主なる神様を愛し、神様に従います。従う、と言っても杓子定規的なものではありません。一人一人に対して御聖霊が導いてくださるので、その導きに従って行くというものです。御聖霊の導きは一人一人に対して異なるのです。ただし同じ場合もあります。

 いずれにしても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいます。2017)という御言葉は有難いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日もあなたの慈しみに覆われて歩ませて頂けますことを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

12/20
は、多忙の故、夜には、心臓部が苦しく、また呼吸をするのも苦しいような感じになりました。必要な薬は全部服用しているにもかかわらず改善しない(薬石効無し)ので、御父に御子の名によって癒してくださるようにと祈ったところ、夕食を食べることが出来ました。ハレルヤ!
12/21
には歯肉が膨れて来て違和感を覚えていましたが、寝てから痛みで目が覚めてしまいました。起きたくなかったので、またイエス様の御名で御父に祈ったところ、起床時には腫れが引いており、痛みもなくなっていました。この腫れは歯槽膿漏から来るもので、その歯肉の中に抗菌薬を注入すれば、歯科的には癒すことができます。以前はそのようにしてもらっていました。
慈しみ深い主の御名を崇めます。
体調が良いというような日は1日もありませんが、神ヤハウェ(主)が地上においてくださっておられる間は大丈夫です。本当はすぐにでも天国に行った方が楽ですが、まだ地上での任務があるのです(あるのでしょう)。
パウロは言いました。「20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」(ピリピ1章・2017)と。

2021年12月26日 (日)

主が来られるのはノアの時代のようなとき

 創世記6:11-18には次のように記されています。
“11 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
12 神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。
13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。
14 あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。
15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。幅は五十キュビト。高さは三十キュビト。
16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内に天窓を仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、箱舟を一階と二階と三階に分けなさい。
17 わたしは、今、いのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大水を、大洪水をもたらそうとしている。地上のすべてのものは死に絶える。
18 しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。”(2017)とあります。
 
 イエス様は次のように語られました。
「37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」(マタイ24章・2017)と。

 37節のギリシア語聖書(TR)を訳すと、“人の子の来臨はノアの日のようでしょう。”となります。

 37節を、新共同訳、聖書協会共同訳は、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と訳しています。

 さて、ノアの時代とは、神様から見るとどのような時代であったのでしょうか?
11.12節には、“地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。”(2017)と記されています。

 聖書完成後においては、神様の基準は聖書に明らかにされています。
現代はどうでしょうか?
かつては聖書を拠り所とした国々でさえ、聖書離れをしている有様です。

 聖書に書かれている神の裁きを俯瞰すると、大きな裁きには、一定の法則があるように思えます。

 第一にあげられるのは、神であるヤハウェ(主)を神としないことです。
神であるヤハウェ(主)を神としないことは、神様が語られた御言葉に聞き従うということをしない、というところに通じます。
即ち、神を畏れ敬うことをしないで、神をいないかのように扱うのです。
これは他人ごとではなく、救われる前の私自身がそのような者でした。
これは神に対して高慢のかぎりを尽くしている状態です。
それ故、世が裁かれる前に、主に救って頂いたことを主にとても感謝しています。

 最初に裁かれた人たちは、アダムとエバでした(創世記3章)。
サタンの言葉をヤハウェ(主)の言葉よりも重く捉えたのです。
この時アダムとエバは、神第一ではなく、サタン第一となったのでした。

 次に、今日の聖句箇所の様に、ノアの時代の人々のことが記されています。
「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。」とあります。
「神の前に」という語が重要だと思います。

 次にヤハウェ(主)が裁かれた事件は、創世記11章の出来事です。
ヤハウェ(主)が人を造りました。
創世記2:7には、“神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。”(2017)と記されています。
 創世記11:4には、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(2017)と記されています。
人類がこぞって神ヤハウェに対して反逆を始めたのです。
それに対する神ヤハウェの裁きは、1原語から多言語にしてしまう、ということでした。

 バベルの塔の次は、ロトの時代のソドムとゴモラです(創世記19章)。
ソドムからソドミーという語が生まれたようです。
現代では、多くの国で、ソドミーは罪とされることなく保護されています。
神ヤハウェは、どのように対処なさるでしょうか。→ローマ1:18-32

 モーセの時代、エジプトの王ファラオは、ヤハウェ(主)に対抗した故に、数々の災害を受け、最後には殺されました(出エジプト記7-14章)。

 その後も様々な国民に対して、神ヤハウェの裁きはいくつも執行されてきましたが、
神と契約を結び、神の民とされたイスラエルに対する裁きについての話をします。
イスラエルに対する裁きには、大小さまざまありますが、特に大きなものを取り上げます。
北イスラエル王国は、神ヤハウェ(主)との契約を破り、神ヤハウェ(主)の御言葉をないがしろにして、偶像礼拝にふけり、アッシリアに捕囚となりました。
南イスラエル王国(ユダ王国)も、北イスラエル王国のまねをし、バビロンに捕囚となりました。

 以上に共通しているのは、ヤハウェ(主)に対する不敬虔です。
ユダ書は不敬虔な者はさばかれるよ、と述べています。

 さて、ノアの時代、ノアとその家族、合計8人以外は不敬虔な人々でした。
それでも、神ヤハウェ(主)は、裁きを下すぞ、というようなことを言ってから120年の猶予を持たれたのです。

 ノアの箱舟は、新約時代のイエス・キリストの型です。
イエス・キリストの中に入った人は、神ヤハウェの裁きにあうことなく守られるのです。
唯物論でしか考えることの出来ない人は、この考えを受け入れることは出来ないでしょう。
しかし、1コリント1:30には、“その神によってこそ、あなたがた〔キリストを信じた者、即ちキリストを心にお迎えした者(筆者挿入)〕はキリスト・イエスのうちに在る者なのである。”(岩波訳)とあります。

 ノアとその家族が箱舟に入った後に、神様が箱舟の戸を閉めました(創世記7:16)。それから水の裁きが始まったのです。
地からは水が噴出し、天からは超豪雨が降り注いだのです。なんと40日間でした。(創世記7:11.12)そして、地上は見えなくなりました(創世記7:19.20)。

 恵みの時代、すなわちキリストの復活から、キリストの空中再臨までの間は、人となられた神イエス・キリスト様を信じるかどうかにかかっているのです。
イエス様の現れ(空中再臨)を持ち望んでいるキリスト者は、裁きの前に霊の体が与えられて、天に移されます。

 まだ、イエス様を心にお迎えしていない人は、イエス様を心にお迎えしてください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<上記の文章の参考聖句>
 キリストの現れとそれを待ち望む者
“・・人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。”(ヘブル9:27.28・2017)

 霊の体に変えられるor霊の体が与えられる時
“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たち〔キリストの現れの時にキリストを待ち望んでいる人達(筆者挿入)〕は変えられるのです。”(1コリント15:52・2017)

 携挙(天に引き上げられること)について
“14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり
17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

 神の御子イエス・キリストに対する信、不信と、神の裁き、復活、永遠のいのち、との関係
“21 父〔父なる神(筆者挿入)〕が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています
25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます〔(ただ聞くばかりでなく、 ほんとうに)聞き従う者(だけ)が生きる。(塚本訳)〕
26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子〔ダニエル7:13(筆者挿入)〕だからです。
28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29 そのとき、善を行った者〔イエス・キリストを信じ、従った者{ヨハネ3:18}(筆者挿入)〕はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者〔イエス・キリストを憎みイエス・キリストに来ない者{ヨハネ3:20}(筆者挿入)〕はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。”(ヨハネ5章・2017)

2021年12月25日 (土)

約束された救い主、主権者

 イザヤ96.7には、
“6
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。2017)と記されています。
(新改訳、口語訳、文語訳、リビングバイブルは、上記の節ですが、新共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、5.6節となっています。)

 6節aには、“ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。”とあります。
「ひとりのみどり子」とは誰を指しての預言でしょうか?
「ひとりのみどり子」とは、イエス・キリストのことです。

 イザヤ9:1.2には次のように記されています。
“しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。”(2017)とあります。

 「大きな光」と記されていますが、それはイエス・キリストのことを言っています。
イエス・キリストの誕生はベツレヘムでした。そして乳児期に一時エジプトに滞在しました。その後、イエス・キリストは、ガリラヤ地方のナザレ村で公生涯に入るまでの間を過ごし、また公生涯に入った後もガリラヤ地方で多くの御言葉を語り、御業を行ないました。即ち、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光をもたらしたのです。
滅びゆく者たちにいのちの光である福音を解いたのです。

 6節cに、“主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”とあります。
「主権はその肩にあり」と訳されている内の「主権」のヘブライ語原語は「ミスラー」で、帝国、統治、支配、・・・等々の意があります。
「肩」と訳されているヘブライ語原語は「シェケム」で、首、肩の意があります。
神の国の行政の主権者はイエス・キリストです。

 また、イエス・キリストは、「不思議な助言者」(新改訳)です。
「不思議な」と訳されている語のヘブライ語原語は「ぺーレー」で、奇跡的な、驚くべき、不思議な等の意があります。

 更にイエス・キリストは、「力ある神」です。
イエス・キリストは、父なる神のひとり子の御子です。
肉体を纏う前は、何と呼ばれていたのでしょう?
神は本質において唯一であり、位格において三であるので、三位一体なのです。
参考箇所として二聖句をあげておきます。
申命記6:4には、“聞け、イスラエルよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちの神。主は〔ヤハウェ(筆者挿入)〕唯一である。”(2017)とあります。
マタイ28:19には、“ 彼らに父と子と聖霊の名〔単数形(筆者挿入)〕によって洗礼を授け”(新共同訳)とあります。
「名」が単数形であることが分かり易いように、NKJV訳を下記します。
“ baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit”とあります。

 イエス・キリストは、「永遠の父」とも記されています。
大患難時代の最終局の預言がイザヤ63章に記されています。
イザヤ63:1-6には、
“ 1 「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」
2 「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか。」
3 「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。
4 復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。
5 見回しても、助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに唖然とした。それで、わたしの腕がわたしの救いとなり、わたしの憤り、それがわたしの支えとなった。
6 わたしは怒って諸国の民を踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた。」”(2017)と記され、
 黙示録19:11-16には次のように記されています。
“ 11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。
12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。”(2017)とあります。

 イザヤ63章に戻りますが、裁きをなさり、贖い主でもあるイエス・キリスト様を指して、
“16 まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。
17 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。なぜあなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。”(2017)と記されています。
 キリスト・イエス様は、17節の預言の御言葉にあるように、キリストの千年王国の王としてエルサレムで統治なさるのです。
今の時代の私たちに対して、キリスト・イエス様は、霊的な統治をなさってくださっておられます。

 また、御父と御子の関係について、イエス様は、「わたしと父とは一つ〔「同一の本質」(欄外注)〕です。」(ヨハネ10:30・2017)と語られました。
またイエス様は、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10・2017)とも語られました。

 イエス・キリストは、「平和の君」とも呼ばれます(6)。
キリスト・イエス様は、私たちに平安と平和をもたらしてくださいます。
「平和の君」と訳された語のヘブライ語原語は「サル(トップの人、君主)・シャローム(安全な、平和、平安、・・・)」です。

 イエス様は、恵みの時代にあって、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27・2017)と語られ、キリストの地上再臨によって、地上に平和をもたらすのです。そのときには、神の力を発揮されます。
その結果をイザヤ2:4bcは次のように預言しています。
“彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。”(2017)と記されています。

 イザヤ9:3-5節には、
“3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。”(2017)と記されていますが、霊的には、恵みの時代に起きていることであり、イスラエル民族に対しては、キリストの地上再臨からキリストの千年王国で見られる光景です。

 7節には、“その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。”(2017)と記され、現実にキリストの千年王国で起こる出来事です。

 イザヤ46:10には、「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(新共同訳)と記され、
イザヤ55章には、 
“8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
9 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。
10 雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。”(新共同訳)記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
偉大なる三一の神の御名に信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月24日 (金)

いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和(平安)神に喜ばれる人にあれ

 ルカ28-21には次のように記されています。
“8
さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12
あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
13
すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
15
御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
16
そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17
それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18
聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19
しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
21
八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。2017)とあります。

 イエス様の誕生について、御使いは、何故、羊飼いたちに遣わされたのでしょうか?
この羊飼いたちは、神殿でささげられる罪のためのいけにえとしての羊を飼育していたから、という推測がバイブルナビにあります。
 バイブルナビは次のように記しています。
神は、御子についての知らせを明らかにし続けたが、それは私たちが予想したような人にではなかった。イエスの誕生は、野の羊飼いに知らされたと、ルカは報告している。彼らは、罪の赦しのために行われる、神殿でのいけにえを献げる儀式のために子羊を供給する羊飼いであっただろう。ここで御使いは、羊飼いに神の子羊の所に行くよう勧めた。そのお方は、永遠にこの世の罪を取り除く。とあります。

 イエス様が公生涯に入られるとき&入られたとき、イエスが神の子羊であることを証ししたのがバプテスマのヨハネでした。
 ヨハネ129-34には次のように記されています。
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。
私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」2017)とあります。

 今から約2000年前の話です。
夜空の光は、晴れていたとしても月や星の光しかなかったことでしょう。
羊飼いたちは、野宿をしながら、羊の夜番をしていたのです(8)。
この夜は、今までの生涯において経験したことのないようなことが起きました。
彼らのところに御使い(単数形)が来、主の栄光が周りを照らしたのです(9)。即ちパーッと明るくなったのです。
羊飼いたちの反応が記されている箇所の原語の文章を見ると、とてもとても驚き恐れた、というように訳せると思います。そのくらいビックリする出来事であったのです。

 その御使い(単数)は次のように言いました。
「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリスト〔「油注がれた者」、「メシア」の意(筆者挿入)〕です。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」(10-12)と。
おそらく、この羊飼いたちは、救い主を待ち望んでいた人たちであったのだろうと思います。
ヨハネ38に、「風〔ギリシア語原語は「プニューマ」、「プニューマ」には「霊」の意もあります(筆者挿入)〕は思いのままに吹く。」と記されています。
「(神の)霊は思うところに行く」ということであろうと思います。
興味深いのは、「霊は思いのままに〔自分の思いに従って(筆者挿入)〕息吹く」とも取れるのではないかと思うのです。1コリント123には、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』ということは出来ません。」(2017)と記されています。

 話を元に戻します。
羊飼いたちは、一人の天使の出現に驚き、天使の言葉にビックリしていましたが、更に仰天するようなことが羊飼いたちに起きたのです。
一人の伝令の御使いの言葉が終わるとすぐに、その御使いと一緒に非常にたくさんの天使たちが現れて神を賛美したのです。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14)と。
「平和」と訳されているギリシア語の原語は「イーレーネー」で、平和、平安、幸運、繁栄の意があります。
「みこころにかなう人々にあるように。」の原語の箇所を直訳すると、「神に喜ばれる人にあれ」(聖書協会共同訳欄外注)、「神に喜ばれる人にあるように」ということになります。
キリスト者に対して、イエス様は、平和のうちに暮らせるとは言いませんでしたが、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14272017)とは言われました。またイエス様は、山上の垂訓の中で八福の幸いを語っておられます。
天使たちの賛美は、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平安、幸いが、神に喜ばれる人にあるように。」というものであったのでしょう。

 15-21節をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“15
天使の大軍が天に帰ると、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった、すばらしい出来事を見てこようじゃないか」と、互いに言い合いました。
16
羊飼いたちは息せき切って町まで駆けて行き、ようやくヨセフとマリヤとを捜しあてました。飼葉おけには、幼子(おさなご)が寝ていました。
17
何もかも御使いの言ったとおりです。羊飼いたちはこのことをほかの人に話して聞かせました。
18
それを聞いた人々はみなひどく驚きましたが、
19
マリヤはこれらのことをすべて心に納めて思い巡らしていました。
20
羊飼いたちは、天使が語った通り幼子に会えたので、神を賛美しながら帰って行きました。
21
八日たち、割礼を行なう日になり、その子は、母の胎内に宿る前から天使に示されたとおり、「イエス」と名づけられました。とあります。

 「イエス」と日本では表記しますが、ギリシア語では「イエースス」になります。
しかし、天使はどう語ったのでしょう。
恐らくヘブル語で、「イェシュア」と名づけなさい、と語ったのでしょう。
この名前は、「ヤハウェ(主)は救う」という意です。
マタイ121には、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(2017)という主の使いの言葉が記されています。
ユダヤ人であれば、イェシュアと聞けば、救い主、と理解できたことでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名が崇められますように。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様を与えて下さり感謝します。
あなたに喜ばれる歩みをし続ける者として頂けますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月23日 (木)

マリアとガブリエル

 ルカ1:26-38を2017は次のように記しています。
“26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは何もありません。」
38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。”とあります。

 26節には、“さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。”と記されています。
 御使い(天使)ガブリエルは、神から人へと御言葉を伝える天使として聖書に登場しています。
天使ガブリエルの名前が記されている聖書の箇所には、次のような箇所があります。
 ダニエル8:16-26の箇所:神がダニエルに夢を見させましたが、ダニエルには解き明かすことが出来ませんでした。そこで、その夢の意味をダニエルに教えるために遣わされたのが天使ガブリエルです。
 ダニエル9:21-27の箇所:神がエレミヤに与えられた70年の預言に関して、ダニエルは断食して祈っていました。ダニエルのこの時の祈りは、国家を代表して悔い改め、赦しを願い、かつ憐れみを求めるような祈りでした。
ダニエルがまだ祈り終わる前に、神はガブリエルを遣わし、1年を360日として見る70年ではなく、1週を7年として見る70週の啓示をダニエルに与えたのです。
 ルカ1:5-23の箇所:天使ガブリエルは、妊娠不可能となった年齢に達している不妊の女性エリサベツの夫ザカリヤに遣わされ、神からの御言葉を告げました。そして生まれてくる子の名前まで決定されていることを教えたのです。この不妊の夫婦から生まれた子はヨハネ、後にバプテスマのヨハネと言われる人でした。このヨハネは、旧約聖書に預言されていた人でした。
 次に天使ガブリエルが登場する場面は、今日の箇所、ルカ1:26-38です。

 ガブリエルが語った処女懐妊という話に驚く人が多いですが、神は全能の神ですから、驚く必要も疑う必要もありません。更に、ルカの福音書を書いたのはルカという名の医者です。

 ガブリエルは言いました。
「神にとって不可能なことは何もありません。」(ルカ1:37・2017)と。
聖書協会共同訳は、「神に出来ないことは何一つない。」と訳しています。
ギリシア語聖書(TR)を読むと、文語訳は、直訳しているのが分かります。
「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」(文語訳)
「ことば」と訳されている語のギリシア語原語は「レーマ」で、語りだされた即自的なことばの意です。ロゴスも言葉の意ですが、どちらかというと恒常的な言葉の時に用います。しかし、ルカ7:7では、百人隊長が、即自的なことばの意でロゴスを使っています。
 新改訳2017は、「神にとって不可能なことは何もありません。」と訳すと共に、欄外注に、“「こと」の箇所の説明として、「語られたことば」あるいは、「語られた事柄」の意”と記しています。
ルカの福音書は、ギリシア語で記されていますが、ガブリエルがマリアに語ったのはギリシア語ではなかったことでしょう。
「ことば」を、ヘブル語では「ダーバール」と言い、言葉の他に事柄、・・等の意もあります。

 いづれにしても、神様から御言葉を頂くということはすごいことです。
「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」ということなのですから。
但し、神様から頂いたのではなく、自分勝手に持って来たものではだめです。

 27節に、“この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。”とあります。
結婚年齢に関して、最近発売されたバイブルナビには、次のような記述があります。
“当時のユダヤの文化では、少女は子供が産めるようになると一人前の女性と見なされるようになり、それはたいてい13か14歳だった。そうなると女性は嫁げるようになり、結婚する1年前に婚約した。”と記されています。

 御使いガブリエルは、マリアに、
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(28)と語り、続けて、
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」(30-33)と語ったのです。

 マリアはガブリエルの言葉にビックリしました。それでマリアは、
「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」と、ガブリエルに言ったのです(34)。

 マリアに子どもができたら、周りの者たちから、マリアは不倫したと思われてしまします。婚約も破談になるかも知れません。
実際、婚約者ヨセフの考えたことが次のように記されています。
“夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。”(マタイ1:19)・2017とあります。

 律法には、“ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。”(申命記22:23.24・2017)と記されています。

 ユダヤの倫理道徳的背景を考えると、マリアはガブリエルからとんでもないことを言われたのです。
マリアのお腹が大きくなっていくにつれて、マリアは、周囲の者から、人々からどのように言われ、扱われるのか、想像するだけで気が遠くなりそうです。

 しかし、マリアは、ガブリエルとのやり取りの中で、ガブリエルの言葉が神からのものであることを悟ったのです。
マリアは、この世のことを、この世の人たちの目を、この世の人たちが発するであろう言葉を脇に置いて、心を神のみに向け、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)と御使いガブリエルに答えたのでした。

 神である主の御用を果たした御使いガブリエルは、マリアから去って行きました。
一方マリアは、エリサベツの許へと行きました。
聖霊に満たされたエリサベツは、マリアに、
「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子ども〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕が喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(ルカ1:42-45・2017)と言ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主が与えてくださる御言葉を正しく聞き分けることができますように。
また、主が語られた御言葉を疑うことなく信じて歩み続ける者であらせてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月22日 (水)

主と共に歩み続けているうちに場所が変わる

 創世記5:21-24には、
“21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。”(2017)と記されています。

 エノクは、誕生してから65年間というもの、神と共に歩んではいませんでした。
メトシェラが与えられた後、エノクは神と共に歩むようになりました。
神と共に歩むことを始めてからの、エノクの地上生涯の期間は300年でしたが、地上で死ぬことがなく、気がついたら天国におり、その後も天国で主と共に生活しているのです。

 ヘブライ人への手紙(ヘブル)11:5に、“信仰によって、エノクは死を経験することなく天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証しされていたからです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 エノクは、神であるヤハウェ(主)を畏れ敬い、ヤハウェ(主)に信頼して歩んだのです。
エノクのような人をヤハウェ(主)は喜ぶのです。
エノクは死を経験することなく天に移されました。

 イエス様の公生涯の期間中、父なる神に喜ばれていた人たちがいました。
最後の晩餐の時のこと、イエス様は次のように言われたり、祈ったりされました。
「それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」(ヨハネ16:27・新改訳第三版)とイエス様は弟子たちに語りました。

 弟子たちは、主イエス様を愛し、主イエス様が父なる神のひとり子であることを信じ、3年半の間、イエス様に従い続けたのです。その結果、イエス様から、弟子であるあなたがたは御父ご自身に愛されている人たちです、と語られたのです。

 このようなイエス様の御言葉を聞くと、11弟子ほどではないかもしれないけれど、自分も頑張ったよ、と思う人がいるかも知れません。
しかし、イエス様は、御父への祈りの中で次のように祈っています。
「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。」(ヨハネ17:12・2017)と。

 ガラテヤ2:20cを聖書協会共同訳は、“私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。”と訳しています。

 聖書の預言と世の動きを見ていると、段々と、この世の終わり(人が人を統治する世界の終わり)に近づいているように私には思えます。
マタイ24章orルカ19章orマルコ13章には、この世の終わりの預言と、紀元1世紀の神殿崩壊及びユダヤ人追放の両方が預言されていますが、それらを読み分けると共に、またエゼキエル書やダニエル書、黙示録、テサロニケ人への手紙、コリントの信徒への手紙、またその他の旧新約預言等々には、終末預言が記されています。

 この世の流れに思いや感情を奪われることなく、いつも主と共に歩むことが大切であることを教えられます。
主を愛し、主に信頼し、日々、聖書を読み、事ごとに祈り、主と共に歩み続けることの重要性を覚えます。
そのようにしている人は、ある日突然、肉の体を霊の体に変えられて、天に移されるのです(1コリント15:52、1テサロニケ4:16.17)。

 主と共に歩んだキリスト者で、その前(キリストの空中再臨前)に死んだ人はどうなるのでしょう。
イエス様は言われました。
「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:26・2017)と。
イエス様は新生した人、すなわち「霊」を見ているのです。
肉体の状態に関係なく、本体が新生した霊である私たちは、永遠なのです。
もし、新生していて、キリストの空中再臨前に肉体の滅びた人は、キリストの空中再臨時に、霊の体が与えられます(1テサロニケ4:16)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主を愛し、主に信頼し、日々、聖書を読み、事ごとに祈り、主と共に歩み続ける日々を送らせてくださいますように。
そのように歩めることはあなたが与えて下さる祝福です。
恵みの上に更に恵みを与えてくださる私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月21日 (火)

主はご自分の聖徒を特別に扱われる

  詩篇43を、
新改訳は、知れ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は聞いてくださる。と訳し、
口語訳は、しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。と訳し、
新共同訳は、主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。と訳し、
聖書協会共同訳は、主は忠実な人を選び、呼びかけを聞いてくださることを知れ。と訳し、
フランシスコ会訳は、しかし、知るがよい、主が忠実な者のために不思議を行われることを。主はわたしが呼び求めるとき、耳を傾けてくださる。と訳しています。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、詩篇44になります)

 「聖徒」(新改訳)、「(神を)敬う(人)」(口語訳、文語訳)、「(主の)慈しみに生きる(人)」(新共同訳)、「忠実な(人or者)」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は、「ハーシード」で、Strong辞書によると、kind(優しい、親切な、思いやりのある)が原義で、宗教的には、pious(信心深い、敬虔な)の意があり、聖人、聖徒、信心深い(人)、敬虔な(人)、善良な、親切な、優しい、高潔な、聖人のような(人)、信仰に身をささげた(人)、慈悲深い、情けのある等の意があります。

 「特別に扱われるのだ」(新改訳)、「聖別されたことを」(口語訳)、「見分けて」(新共同訳)、「選び」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)と訳された語のヘブライ語原語は、「パーラー」で、Strong 辞書によると、to distinguish{逐語的にも比喩的にも(区別すること)}という意であり、put a difference(区別or差別 を置く)、 show marvellous{不思議な(こと)or素晴らしい(こと)or奇跡 を見せる}、 separate(分ける、区別する)、set apart(取り除けておく、別にしておく、区別する)、 sever(分ける)、 make wonderfully(素晴らしくつくる)等の意があります。

 リビングバイブル訳は、新約的に意訳して次のように訳しています。
“人の子らよ、よく心に留めておきなさい。主は救われた人々を、ご自分のためにえり分けました。だから、私の声に耳を傾けて、答えてくださるのです。”と記しています。

 新改訳は、「主は聖徒を特別に扱われる」と訳していますが、「聖徒」とは何でしょうか。
 「聖徒」について聖書辞典は次のようにまとめてくれています。
“ せいと 聖徒 旧約において聖徒と訳されるヘブル語は「ケドーシーム」である。この語は形容詞カドーシュからきており、その語の語根qdsの意味は「切る」「分ける」であり、神の用のために俗的な人々または物から分離することを強調することばである。申33:3の「聖徒」は「主に聖別された者」という意味であり、「ヤハウェ礼拝のために聖別されたイスラエル」を指している(参照 詩16:3,34:9,ダニ8:24)。また、アラム語の「カッディーシーン」も同義で、「いと高き方の聖徒」という表現によってイスラエルを指している(ダニ7:18‐27)。さらに,ヘブル語のハーシードゥは「敬虔な」という意味で、ハシーディーム〔ハーシードの複数形(筆者挿入)〕の形で多く「聖徒たち」と訳され、主として詩篇に用いられている(詩30:4,31:23,50:5,52:9等)。また、この語は「恵み深い者」(詩18:25)とも訳されることばで、神のあわれみ(〈ヘ〉ヘセドゥ)の概念に基づく敬虔に強調点がある。すなわち,それは人格の優秀さにではなく、神の選びと恵みを賜わった者という点に強調がおかれている。特に、マカベア時代〔マカベア戦争はB.C.166-142年(筆者挿入)〕には、ハシーディームはユダヤのギリシヤ化勢力に反抗した敬虔者の一団を指すことばとなった。
 新約において「聖徒」と訳されている〈ギ〉ハギオイは、「聖なる者」「きよめ分たれた者」という意味を持つ。マタ27:52は新約以前の聖徒を指しているが、他はすべてキリスト者を指している(使9:13,32,41,26:10,ロマ1:7,8:27,2コリ1:1,13:12, エペ1:1,3:8等)。それは、クリスチャン、兄弟と同意語である(コロ1:2)。
 聖徒は主イエスに対しては弟子、同信の友に対しては兄弟である。聖徒とは、イエス・キリストの贖いによって「世」(罪と死の律法)から分離され、聖別された者という意味で、教会すなわち選びの民の中に加えられた者としてこの名が与えられているのである。このように、聖徒はその身分を神の召しによって得たものであって(ロマ1:7)、通常立派な人を指して言う聖人君子、完全無欠な人とは異なる。聖徒は、イエス・キリストの十字架の血によって罪をきよめられ、その血に免じて罪がないと見なされ、神の御用のために世から選び分たれた「罪赦された罪人たち」である。したがって、罪深い肉的生活を送っていたコリント教会の兄弟たちにすら、パウロは聖徒と呼びかけている(1コリ1:2)。とはいえ、もちろん、恵みにより聖徒とされた者には聖徒にふさわしく生きることが求められている(エペ5:3‐4)”と記しています。

 詩篇4:3の前半部分には、「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」(新改訳)とありましたが、
後半部分には、「私が呼ぶとき主は聞いてくださる。」(新改訳)と記されています。

 キリスト者が主を呼ぶとき(主に祈るとき)、主は聞いてくださいますが、主は祈りの内容を聞かれた後、祈った通りに応えてくださる場合と、祈った祈りとは異なる答えを下さる場合とがあります。
主の応えは、主の義と愛とご計画or御旨に関係するのではないかと思います。
使徒ヨハネは、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(1ヨハネ5142017)と記しています。
また、ヨハネの福音書では、イエス様が次のように語られたと記されています。
「・・わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ1413.142017)と。
「私の名によって」と訳されているギリシア語原語を英訳すると、“in my name”となります。ですから、「主ご自身の中で」「主の御旨の中で」「主の御旨にかなって」と捉えることが出来るのではないかと思います。
いつも主のみ旨に叶ったお祈りをすることが出来たら良いですね。
御聖霊が導いて下さる祈り、or主と一つとされている霊(1コリント617)が常に主を主としている場合の祈りであれば可能です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつも主の導きに従って祈ることができますよう整え導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月20日 (月)

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 マタイ5:4を文語訳は、「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。」とギリシア語聖書の語順に従って訳しています。
 2017は、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」と訳しています。

 「悲しむ者」と訳されている語の原語の意味は、深く悲しむ、悲嘆に暮れるという意です。

 人はどのようなことを深く悲しむでしょうか。
子供を失ったこと
伴侶者を失ったこと
信じていた人から裏切られたこと
恋人と死に別れたこと
全財産を失ったこと
今まで積み上げてきたことを失ったこと
そのほか色々あることでしょう

 神であり人ともなられた主はどのようなことを深く悲しむのでしょうか?
私には、よく分かりませんが、一つ分かることがあります。
それは愛する者を失った時です。
イエス様は、ラザロの死に対して「涙を流された」(ヨハネ11:35)のです。
この話の一部始終はヨハネ11:1-44に記されています。

 また次のような記述もあります。
マタイ23:37-39には、
「37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(2017)と記されています。

 私が参照しているギリシア語聖書は2017の訳の様に、37節の冒頭は、「エルサレム、エルサレム」となっています。同様に訳している日本語訳聖書には、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳等があります。
 一方、「ああエルサレム、エルサレム」と訳している日本語訳聖書には、口語訳、文語訳、新改訳第三版、リビングバイブル訳、塚本訳、前田訳等があります。

 私には確信はありませんが、イエス様の心情としては、「ああエルサレム、エルサレム」という悲嘆であったのではないかと思います。
魂が滅びていくことを思っての悲嘆ではなかったのかな、と思います。
イエス様がそうであったとしたら、御父も同じです。
御父と御子の本質は同一だからです。

 神様は義なるお方ですから、必ず裁きをなさいます。
しかし神様は同時に愛のお方ですから、裁かれて滅びゆく者に対して深く悲しむのです。
子供を深く愛している親の場合も同じような場合があるということを見聞きしたことがあります。
キリスト者であれば、その人がかかわった人が多ければ多い程、同じようなことを経験しているでしょう。
裁きがどの様なものかを知っており、真剣に様々な手を尽くして福音を伝えたにもかかわらず、イエス様を信じてくれない人たちに対して、「ああ、」という悲しみの思いを持つことでしょう。

 キリスト者は、喜びと悲しみが同居する人たちでしょう。
主との良き関わりにおいては、大いに喜び、滅びゆくかも知れない魂に対しては悲しみを覚えることでしょう。

 しかし、この件については、解決していただける時が来ます。
イザヤ65:17-18aには、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。」(2017)とあり、
 黙示録21:1-4には、“わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」”(新共同訳)と記されています。

 地上生活の様々な悲しみは、その人が主に心を向ければor向け続けていれば、地上にいる間に、主が、悲しみを取り去ってくださることでしょう。あるいは、悲しみを喜びに変えてくださることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは如何なる悲しみをも取り除いてくださるお方ですから御名を崇めて感謝します。
しかし、神様の悲しみに対して私はなすべきすべがありません。
せいぜい、神様の喜びを喜びとし、神様の悲しみを悲しく思う、ということを極めてわずかばかり共有させて頂くだけです。
一人の人が救われても、天では大きな喜びが沸き起こります。
私たちの歩みを通して救われる人がおこされていきますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ルカ15:7“あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。”(2017)

2021年12月19日 (日)

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 箴言1章に次のような聖句があります。
23 わたしの叱責に立ち返れ。・・・。
24
わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
25
おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。
26
わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。
27
恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、
28
そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。
29
それは、彼らが知識を憎み、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることを選ばず、
30
わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。
31
それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企(たくら)んだことで腹を満たす。
32
浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
33
しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。”(2017)と記されています。

23 わたしの叱責に立ち返れ。・・・。
24
わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
25
おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。”
とヤハウェ(主)は言われますが、世の中には、「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ115b1017)と言われても、ヤハウェ(主)の御言葉に従って信じる人はほんのわずかです。

 現代人は、聖書を信じていません。聖書の中の一部分は良いことが書いてあると認めますが、聖書のすべてを聖なる書、として認めることをしません。

 イエス様は、最後の晩餐の時に、「5 しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方〔御子イエスの御父(筆者挿入)〕のもとに行こうとしています。/・・・。
7
・・、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16章抜粋・2017)と語られました。

 7節の、「・・・。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」というイエス様の御言葉を私の言葉で言い直すと、
「わたしイエスが、十字架上で、すべての人の罪の贖いを成し遂げ、そして死んだ後に葬られ、更に復活し、御父のもとに昇るということは、見えるところでは、わたしがあなたがたから去るということですが、それはあなたがたにとって益になるのです。わたしが昇天しなければ、あなたがたのところに助け主すなわち聖霊はおいでになりません。わたしが昇天し、御父の右の座に着座すれば、わたしはあなたがたのところに助け主、すなわち聖霊を遣わします。」となります。

 8-10節も小生の言葉で述べてみますと、
「助け主すなわち聖霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世(の人)に誤りを認めさせますor世(の人)の誤りを明らかになさいます。
わたしイエスを信じないことが罪である、ということを明らかにします。
(イエス・キリストを信じ、すなわち心にお迎えした者の罪はすべて赦されるのです。)
義というと、人は自分の義について考えがちですが、わたしキリストが義であるということです。わたしキリストが義であるということは、わたしが復活した故に、もはや地上では、十字架上で死んだイエスの死骸を誰も見ることのできない状態になっていること、それはわたしイエスを父なる神が義であると証印を押し、わたしが父のもとに昇るからです。
わたしキリストは、御父の右の座に着座します。そして、天地万物に対する権威を授けられます。
世の支配者である悪魔(サタン)は、イエスを十字架によって殺せると考え、それを実行しようとしますが、イエスが死んだ時、殺人者サタンは、神の子殺しの故に裁かれるのです。それ故、イエス・キリストの十字架刑が執行されたとき、サタンは裁かれたのです。(それ故、キリストの内に留まる者に対して、サタンは力を行使できません。神から生まれたもの(新生した霊)にサタンは触れることができないのです。)」
(多くの挿入語を入れて意訳してみました。)

 万物の根源であられる神様は、イエス様を信じる者をイエス様の内においてくださいました。イエス様を信じる者はイエス様にあって、神から赦され、義とされ、神のものへと聖別されたのです。

(それ故、・・・ )の箇所の聖句の元は、次の聖句です。
1
ヨハネ518に、神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。(新共同訳)とあります。
また、聖書協会共同訳は、次のように訳しています。
神から生まれた人〔生まれたのは「霊」(筆者挿入)〕は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。とあります。
 ただし、肉体や魂は、新生したものではありません。肉体は古いままであり、魂は、救われましたが新しく生まれたわけではありません。

 話を元に戻します。
 23節を新共同訳は、「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。」と訳しています。
主の霊によらなければ、主の御言葉を正しく理解することが出来ません(1コリント211-13)。
 「立ち返って、わたしの懲らしめを受け入れるなら」は、「悔い改めて、主の御言葉に聞き従うなら」、と言い換えることも可能ではないかと思います。
 主が、「悔い改めて、わたしの言葉に聞き従うなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。」(23)と、有り難くも、お語りくださっているにもかかわらず、24.25節を読むと、主のお申し出を受け入れない者が多いようなのです。

 24.25節には次のように記されています。
わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。
手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。とあります。

 26-32節では、主の御言葉に聞き従わない者が、どのような経過をたどるのか、主の御言葉に聞き従わない者に対して、主がどのような対応を取るのかを、主が語っておられます。次のように記されています。
“26
わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。
27
恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、
28
そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。
29
それは、彼らが知識を憎み、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることを選ばず、
30
わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。
31
それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企(たくら)んだことで腹を満たす。
32
浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。とあります。

 ガラテヤ6:7には、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(新共同訳)とあり、
ローマ623には、「罪の報酬は死です。」(新改訳2017)と記されています。

 次の33節には、主に従う者の祝福について以下のように短くまとめられています。
“・・、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたは、私たちを愛して、聖書の御言葉を与えてくださいました。
あなたを愛する愛を頂ければ、あなたの御言葉に従うことが難しくなくなっていきます。
益々、霊の父であるあなたを、そして、主であり花婿であるキリスト・イエス様を愛する愛を下さり、愛する故に御言葉に従う歩みをしていくことができますようお願いします。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月18日 (土)

主を見るか(主に信頼するか)、それとも主を見ずに人を見るか

 ダビデは、自分の子であるアブサロムから命を狙われたことがありました。
アブサロムは準備万端を整え、ダビデを殺して自分が王になろうとしたのです。
イスラエルの人々の心はダビデから離れ、アブサロムになびいていたのです。
それ故、ダビデは家来を引き連れ王宮から荒野の方へと逃れて行ったのです。
その時のことは、2サムエル15章には次のように記されています。
“12
アブサロムは、・・・、人を遣わして、ダビデの助言者ギロ人アヒトフェル、彼の町ギロから呼び寄せたこの謀反は強く、アブサロムにくみする民が多くなった
13
ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいています」と言った。
14
ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。
「さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。」
15
王の家来たちは王に言った。
「ご覧ください。私たち、あなたのしもべどもは、王様の選ばれるままにいたします。」
16
王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。/
23
・・・。王はキデロンの谷を渡り、この民もみな、荒野の方へ渡って行った。2017)とあります。

 このような状況下で読まれた詩篇が詩篇3篇です。
詩篇3編の表題には、ダビデの賛歌。彼の子、アブサロムの前から逃れたときに。とあります。

 この時の状態を、ダビデは次のように記しています。
“1
なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
2
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。2017)とあります。

 このことを、ダビデは部下に嘆いたのでしょうか。
或いは、「もう駄目だ」と思って言っているのでしょうか。

 主なる神様に信頼しないで、自分の何かだけに頼っているとしたらどのようになるでしょうか。

恐怖に襲われ、怒り、絶望するのみです。

 ダビデは、ヤハウェ(主)に信頼していました。
実は、上記の1節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう。」(2017)と記されています。

 ダビデは、ヤハウェ(主)に実情を訴えていたのです。
ダビデは、この様な状況下に置かれても、ヤハウェ(主)に信頼していました。
どのくらい信頼していたのでしょう。
詩篇35.6には、次のように記されています。
「私は身を横たえて眠り、また目を覚ます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私を支えてくださるから。6 私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。」(2017)とあります。

 ダビデには、エルサレムに留まりながらでも戦う方法はあったのではないかと思うのですが、ダビデは、おそらくエルサレムが灰燼に帰さないようにとの思いもあって、神の都であるエルサレムを出たのではないかと、私は思います。エルサレムにいるよりも野戦の方が勝利しやすいとの考えも否定はできませんが。

 ダビデは、厳しい状況下に置かれても、「どうしよう、どうしよう」と狼狽するのではなく、「ヤハウェ(主)よ、・・・」と、ヤハウェ(主)に信頼し、ヤハウェ(主)に祈ったのです。

 箴言2925には、人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(新改訳第三版)と記されています。

 ダビデは、主に信頼していました。
ダビデは、主の御旨に叶うようにとの歩みを心がけていたと思います。
情欲に負けたこともありましたが。

 主に信頼し、主と共に歩んでいたとしても、まして、キリスト者の場合には、主が内に住んでくださっておられても、苦難には出会うのです。
主から見放されているのではなくても苦難には出会うのです。

 イエス様は、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ1633後半部分・2017)と語られました。

 私たちが苦難に会うことは、主の中では織り込み済みなのです。
しかし、私たちには、勝利者イエス様がおられます。
私たちは、イエス様にあって、勝利を体験しながら地上生涯を歩んでいくのです。
苦難の期間は一定ではありませんが、主に信頼していれば、少なくとも平安は与えられます。

 イエス様は、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14272017)と語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
如何に長い苦難を与えられようとも、その終局は勝利であり、その過程は、あなたと共にある平安であることを覚え感謝します。
常にあなたを愛し、あなたに信頼し続ける生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月15日 (水)

心の貧しい人々は幸いです(マタイ5:3)/祝福されています。霊の中で〔主に、満ち満ちてくださいと(筆者挿入)〕乞い求める人は。

 <今日の箇所は3日分です>
 マタイ53に、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(聖書協会共同訳)と記され、
「心の貧しい人々」について、欄外注に、“直訳「霊において貧しい人々」”と記されています。

 この聖句については今までにも幾度か述べてきていますがさらに詳しく記していきます。

 当ブログの2015年911 で述べた内容は、以下のようでした。
3節に「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(口語訳)とあります。
新改訳は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と訳しています。
日本語の聖書で、「心」と訳している語のギリシア語の原語は"πνεῦμα"(プニューマ)で、英語では普通は"spirit"、「霊」です。
NKJV
は、"Blessed are the poor in spirit, For theirs is the kingdom of heaven."と訳しています。”

 「貧しい」と訳されている語のギリシア語原語は、「プトーコス」で、beggar”(物乞い、乞食、物もらい)、貧乏人、非常に貧乏な人等の意があります。「プトーコス」の意味としてStrong辞書に最初に出てくるのは、beggarです。
ですから、この聖句の前半部分を、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」と訳すこともできます。

 
今回は、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」という浅学 非才な小生の訳に従って書いていきます。

 「心」について、デジタル大辞泉には、人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。また、働きそのものをひっくるめていう。”と記されています。
「理性」については、物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。と記されています。理性のこの解説を聖書の翻訳原語でいうと「良心」ということもできると思います。
2
サムエル2410を、新改訳2017は、ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。と訳しています。
この箇所で「良心」と訳された語のヘブライ語原語は、「レブ」で「心」です。
日本語訳聖書の内、「良心」と訳しているのは、新改訳、リビングバイブル、聖書協会共同訳です。
口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、文語訳は、「心」と訳しています。

新約聖書の中で、「良心」という語が出てくる有名な聖句に、
彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(ローマ2152017)というものがありますが、この文章から考えると、「良心」は「心」に包含されているように思います。
「心」のギリシア語原語は「カルディア」です。
「良心」のギリシア語原語は「スネイデーシス」です。

 「心が貧しい」というと、良心が貧しく、知性、感情、意志も貧しい、という様に、私には感じられます。
良心がほとんど無く、知性が暗く、感情が希薄で、意志薄弱の人は幸いでしょうか、神に祝福されているでしょうか。
と、私などは考えてしまします。

 そこで今回は前述したように、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」という浅学非才な小生の訳に従って書いていきます。

 先ずは、「霊」について考えてみます。
人によっては、アダムの堕罪の時に、霊は死んだ、と表現する人たちがいます。
ところが、
「霊」は人の肉体を生かしています。
「霊」が体から離れると人の肉体は死にます。
 ヤコブ226には、からだが霊〔ギリシア語原語は「プニューマ」(筆者挿入)〕を欠いては死んでいる・・・。”(2017)と記されています。
 また、ルカ8章には次のような記述があります。
“49
イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
50
これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
51
イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52
人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
53
人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54
しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
55
すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。
56
両親が驚いていると、・・・。2017)と記されています。

 人の肉体を生かしている霊は、「いのちの息」とも言われます。
「いのちの息」の語のヘブライ語原語は、「ネシャマー」で、「霊」と訳される場合もあります。
参照聖句として、イザヤ5716には次のように記されています。
わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊〔「ルーアハ」(筆者挿入)〕が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息〔「息」はネシャマー(筆者挿入)〕が。2017)とあります。
〔わたしが造った「霊」とも言うことができますゼカリヤ121参照(筆者挿入)〕
 創世記27には、“And the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath〔原語は「ネシャマー」即ち「息」(筆者挿入)〕 of life; and man became a living soul〔原語は「ネフェシュ」即ち「魂」(筆者挿入)〕.”(KJV)とあります。

 聖書には「死者の霊」という語が記されています。 
イザヤ14章は13章から続くヤハウェ(主)がイザヤに見させたもの、語ったものです。
その中に、よみは、下界で、おまえが来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。”とあります。(イザヤ1492017)とあり、
 ヤハウェ(主)がイザヤに語らせた預言の箇所に次のようなものがあります。
あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。(イザヤ26192017)とあります。
〔イザヤ26章は、キリスト者に与えられた預言ではありません。キリスト者の霊が肉体から出た後、その霊は直ちに天に行きます。(筆者挿入)〕
イザヤ261には、その日、ユダの地でこの歌が歌われる。2017)と記されています。
 神様から義人と言われたヨブは、死者の霊たち、水に住む者たちは、その底で、もだえ苦しむ。(ヨブ2652017)と述べています。
 箴言2116は、悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。(新改訳第三版)と記し、悟りとは何を指しているのかについて、ヤハウェ(主)はエレミヤに、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を知っていることを。」(エレミヤ9242017)と語っています。
キリストの内に無い人の霊は、無いと思っている人がいますが、上記の聖句からも、そうではないことが分かります。

 ゼカリヤ121は次のように記されています。
宣告。イスラエルについての主のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。2017)とあります。
キリストの復活以前の旧創造の人たち(アダム系列の人たち)の霊について、ヤハウェ(主)は、人の霊を造った、と語っておられます。

 人がキリストの救いにあずかるとアダムの堕罪前の状態に戻ったという人がいますが、それは違います。何が違うのでしょう。霊が違うのです。

 さて、キリストの復活後の人の霊は?
1.キリスト様を信じていない人の霊は、キリストの復活以前の旧創造の人たち(アダム系列の人たち)の霊です。
2.キリスト様を信じた人の霊は、新しく生まれた、と使徒ヨハネも使徒ペテロも述べています。主イエス・キリスト様の公生涯の間、常に主のそばにいて主から教えを受けたこの二人が残した聖句を下記します。

 ヨハネ3章に次のように記されています。
“1
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2
ある夜、イエスのもとに来て言った。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3
イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4
ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である
7
あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。(新共同訳)
3
節と7節の「新たに」と訳されている語のギリシア語原語は「アノーセン」で、上から、新しく、再び等の意があります。
 イエス様の御言葉を合わせると、上から新しく、そして霊から生まれなければ神の国を見、神の国に入ることができない、ということになります。
キリスト者の霊は、造られた霊ではなく神の霊から生まれた霊です。

 ペテロは次のように記しています。
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。2017)とあります。
 キリストの復活以前には、新しく生まれるということはなかったようです。

 本論に戻ります。
イエス様を信じ、霊の誕生をさせて頂けたといっても、その霊は赤ちゃんです。
神の子どもである霊の赤ちゃんは、霊の乳即ち御言葉を求めるのです。
それだけではありません。神様ご自身を求めるのです。
主と交わる者は主と一つの霊となるのです(1コリント617)。
また、主を慕う赤ちゃんは、主に満たされたいのです。
神のひとり子であられるイエス様が人にもなられたときの聖霊との関わりはどのようであったのでしょうか?
ヨハネ334には、神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。”(2017)と記されています。
キリスト者も、「御霊に満たしてください」と祈るのです。

「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」とあるように。

 更に、恵みによって信仰から信仰へと進ませて頂き、恵みから恵みへと進ませて頂き、主の愛を豊かに感じ取れるようになった人は、益々主を愛することでしょう。
そのような人は、私の霊を専有してください、と、愛の動機から言うでしょう。
パウロはそのような人であったのではないかと想像します。
「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私〔新生した私は霊(筆者挿入)〕の内に生きておられるのです。」とパウロは証しています。
パウロは、生まれながらの肉体を自分とは捉えていませんでした。
唯物論者や唯脳論者にとっては、「私」というのは、物質ですが、新生した者にとって、「私」、は肉体ではなく「霊」なのです。
パウロは次のように述べています。
“1
たとえ私たちの地上の住まいである幕屋〔「肉体」=霊の入れ物(筆者挿入)〕が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
2
私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まい〔霊の体(筆者挿入)〕を着たいと切望しています。
3
その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
4
確かにこの幕屋〔地上の肉体(筆者挿入)〕のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まい〔霊の体(筆者挿入)〕を上に着たいからです。
5
そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
6
ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
7
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
8
私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
9
そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。2コリント51-92017)と記されています。

 ペテロも同じようなことを述べています。
「私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋〔肉体(筆者挿入)〕を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。」(2ペテロ1142017

 霊が肉体から出ていく時、イエス様やステパノはどのように祈ったでしょうか?
イエス様は、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23462017)と祈り、
ステパノは、「主イエスよ、私の霊をお受けください。」(使徒7592017)と祈りました。
新生した人の本体は、上から新しく誕生させて頂いた霊であり、この霊は、主と一つにされている霊であり、永遠のいのちを持っている霊です(ヨハネ33.61ペテロ13、ヤコブ1181コリント6171ヨハネ511.13、ヨハネ1126)。
 霊の中で、主が満ち満ちてくださることを、ひたすら求める者の心は豊かになることでしょう。

「祝福されています。霊の中で〔主に、満ち満ちてくださいと(筆者挿入)〕乞い求める人は。天の御国〔原語の意味天の王国、天の支配(筆者挿入)〕はその人のものだからです。」
イエス様は、「みこころが天で行われるように、地でも〔「私の内でも」とも祈れます(筆者挿入)〕行われますように。」(マタイ6102017)と祈るようにと教えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたのみ旨に叶った歩みを継続していくことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月14日 (火)

主が主の霊を注いでくださると主のことばが分かる

 箴言122.23には、
“22
「浅はかな者よ、おまえたちは、いつまで浅はかなことを愛するのか。嘲る者は、いつまで嘲ることを欲するのか。分別のない者は、いつまで知識を憎むのか。
23
わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。2017)と記されています。

 22節の「浅はかな者」、「嘲る者」、「分別のない者」と訳されている語の原語はすべて複数形です。

 22節をフランシスコ会訳は、
無知な者たち、お前たちは、 いつまで無知を好むのか。

あざける者たちは、いつまであざけりを楽しむのか。

愚か者たちは、いつまで知識を憎むのか。”と訳しています。

 「浅はかな」(2017)、「無知な」(フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は、「ペティー」で、愚かな、分別のない、馬鹿げた、くだらない等の意があります。

 「嘲(あざけ)り」と訳している語のヘブライ語原語は、「ラーツォーン」で、あざけり、冷笑、愚弄、等の意があります。

 「分別のない者」(2017)、「愚か者」(フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は、「ケシール」で、愚か者、間抜け、能なし等の意があります。

 22節の「知識」とは、数学や物理学・・・等の知識というわけではなく、これまでにヤハウェ(主)が教えてくださった知識のことです。ヤハウェ(主)の御前にどのように生きたら良いのかという知識です。

 箴言が書かれた当時であっても、ヤハウェ(主)は、聖書を通して、信仰による歩みの代表としてエノクやアブラハム、その他の人たちについて教えてくださいました。
また律法による歩みというものも教えてくださいました。

 この箴言が書かれた当時のイスラエルの状態は、
“24
わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が呼んだのに、おまえたち〔イスラエル(筆者挿入)〕は拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
25
おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。(箴言1章・2017)という状態であったのです。

 ヤハウェ(主)の御言葉に心を留め、ヤハウェ(主)に従わないと、ヤハウェ(主)から忠告や叱責、更には懲らしめが来るのです。それは主が愛してくださっておられるからです。

 23節を新共同訳は、「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。」と訳しています。
主の霊によらなければ、主の御言葉を正しく理解することが出来ません(1コリント211-13)。
 「立ち返って、わたしの懲らしめを受け入れるなら」は、「悔い改めて、主の御言葉に聞き従うなら」、と言い換えることも可能ではないかと思います。
 主が、「悔い改めて、わたしの言葉に聞き従うなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。」(23)と、有り難くも、お語りくださっているにもかかわらず、24.25節を読むと、主のお申し出を受け入れない者が多いようなのです。
このようなことは、現代でも宣教活動をした人は体験しているところですね。

 私たち異邦人の場合は、先ずイエス様を信じる、ということが大切ですね。
私の体験を述べると、イエス様を信じる前、聖書を何に使っていたかというと、未来の預言書として使っていたのです。本筋から外れているわけです。
しかし、預言ということに関しては、イエス様を信じていなくても色々と調べれば多少は分かるものなのです。
 その当時即ちイエス様を信じる前、注解書も読んでいました。
しかし、イエスがキリストであり、救い主であるということを理解することは出来なかったのです。

 このことは、救われた後になって理由が分かりました。
1
コリント123に、“・・・、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。”(口語訳)と記されていたのです。

 箴言123には、「わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。」(2017)と記されています。

 「知らせよう」の「知る」という語のヘブライ語原語は、「ヤーダー」で、知る、理解する、・・等の意があります。

 イエス様を心に受け入れてから、聖書を理解することが出来るようになっていったのです。
また、主の御忠告に従って、主の御旨から外れているところを変えていただくことによって、聖書をより理解することが出来るようになっていったのです。

 聖書理解もお祈りも、主にきよくして頂くことの重要性を痛感します。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは私たちを根気よくお整え下さるお方です。
それ故に、あなたの慈愛深さと寛容さをしみじみと実感する者です。
どこまでも愛してくださいますことを感謝します。
あなたの御名が益々崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月13日 (月)

黒にんにく200g青森県産

 詩篇21-3には、
1 なぜ国々は騒ぎ立ちもろもろの国民は空しいことを企むのか。
2
なぜ地の王たちは立ち構え君主たちは相ともに集まるのか。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕と主〔ヘブライ語原語は「彼」(筆者挿入)〕に油注がれた者に対して。
3
「さあ彼らのかせを打ち砕き彼らの綱を解き捨てよう。」”(2017)と記されています。

 ここには、サタンに同化し、ヤハウェ(主)には敵対する人達、すなわちまことの神に対して不従順である人達が描写されています。

 キリスト者とされた人たちも、キリストを信じる前は、神に対して不従順であった人たちと同じグループでした。
それはエペソ22に次のように記されてある通りです。
 新改訳2017は、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い〔この世のならわしに従い(口語訳)〕、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。と訳し、
 リビングバイブルは、この世の人たちと同じ生き方をし、罪にまみれ、主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。と意訳しています。

 キリストのものとされる以前の人たちは、すべてまことの神に対して不従順であったのです。そして意識せずともサタンに対しては従順であったのです。
中には、自分はキリストを信ぜずとも善人として生きてきたという人がいるかも知れませんが、サタンは光の御使いに変装することもあるのです(2コリント1114)。
まことの神がいうところの「良き人」というのは、まことの神に従順な人のことです。

 天国は、まことの神に対して従順な人たちが住むところです。
まことの神に対して不従順な人たちが、間違って天国に来たとしたら、とても住みづらいことでしょう。すぐにでも他の場所に移りたくなることでしょう。
 使徒ヨハネは、ヨハネ3章に次のように記しています。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
19
そのさばきとは、光〔イエス・キリスト。ヨハネ17-10参照(筆者挿入)〕が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕よりも闇を愛したことである。
20
悪を行う者はみな、光〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の方に来ない。
21
しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の方に来る。”とあります。

 キリスト者になった人も罪を犯していました。
しかし、主なる神様から、或いは主が遣わされた人から、罪を示された時に、自分はその通りの罪人です。そのような罪を犯した者です、と告白し、救い主イエス様を信じ、イエス様を心にお迎えした者、それがキリスト者です。

 イスカリオテのユダがイエス様を売った(マタイ2614-162645-50、ヨハネ181-5)後、イスカリオテのユダは後悔しましたが、イエス様のもとに戻ってくることはなく自殺しました(マタイ273-5)。
イエス様に愛を注がれ続けたペテロは、イエス様が逮捕された後、自己保身から、3度もイエスなど知らない、と言いました(マタイ2669-74)が、悔い改めてイエス様の元に戻ってきたのです。

 
ペテロがイエスを知らない、と言った箇所を下記します。
“69
ペテロは外の中庭に座っていた。
すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
70
ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
71
そして入り口まで出て行くと、
別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
72
ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
73
しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
74
するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。(マタイ26章・2017)と記されています。

 イエス様の御復活後のティベリア(ガリラヤ)湖畔での出来事です。
イエス様とペテロのやり取りがヨハネ2115-19に次のように記されています。
“15
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16
イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。
ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17
イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。
ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18
まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19
イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。
こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様に従い続ける歩みをしていくことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月12日 (日)

エバとアダムが罪を犯さなかったとしたらどのようであったのでしょう

 創世記3章には、エバとアダムが堕罪したことと、その結果どうなってしまったのか、ということが記されています。

 神である主(ヤハウェ・エロヒーム)が、アダムとエバに与えた禁止命令はただ一つ、「善悪の知識の木からは、食べてはならない。」(創世記2172017)というものでした。
ヤハウェ(主)は、この禁止命令を破るとどうなるのか、ということも同時に教えました。
それは、「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」という内容でした。

 しかしサタンから誘惑されたとき、エバは唯一の禁止命令を破って善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。エバに誘惑されたアダムもその実を食べてしまいました。

 アダムとエバは、ヤハウェ(主)の言葉よりもサタンの言葉を選んだのでした。 
アダムとエバには自由意思が与えられていました。
何を選ぶかは、アダムとエバに主権があったのです。
アダムとエバは、ヤハウェ(主)ではなくサタンを選んだのです。

 ヤハウェ(主)からしたら、アダムに捨てられたのです。

 アダムとエバは死ぬことになりました。
もし、主が与えた唯一の禁止命令を守っていたら死なずに済んだのでした。

 ヤハウェ(主)が、人を造ったとき、ヤハウェ(主)は、食べていくのに困らないようにしてくださったのです。
ヤハウェ(主)は、園の中央にある善悪の知識の木の実(創世記31)以外の木の実について、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」(創世記2162017)と語られたのです。

 余談になりますが、
神である主(ヤハウェ・エロヒーム)が定めた救いの方法も唯一です。
罪人(すべての人は罪びとです)が、イエス様を信じると即ち心にお迎えすると、その人は罪を赦され、義と認められ、永遠のいのちを与えられ、神の子どもとして神様と豊かな交わりを持つことが出来るようになるのです。

 話を元に戻します。
アダムが堕罪した故に、アダムには、罰として次の呪いがもたらされたのです。
創世記317-19には、
“17
また、人〔ヘブライ語原語は「アダム」(筆者挿入)〕に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。
18
大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。
19
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」2017)と記されています。

 現代でも、人は生きていくために、生きていくための糧を得るために辛い思いをしているのです。
生きていくための糧を得るために辛い思いをしなくて済む財力のある人であっても、死から逃れることは出来ません。

 アダムが堕罪しなかったとしたら、ヤハウェ(主)と交わりを持ちつつ永遠に生きることが出来、おいしい果実を食し、多くの子孫や従順な動物たちに囲まれて生活することが出来ていたのです。

 アダムの時代、すべての生物が肉食をしなくてもよかったのです。
創世記129.30には、神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。2017)と記されています。

 肉食が許可されたのはノアの時代です。
創世記9章には次のように記されています。
“1
神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。
2
あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる。
あなたがたの手に、これらは委ねられたのだ。
3
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。
4
ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。2017)とあります。

 エバがサタンの誘惑に乗ることなく堕罪しないですんだとしたら、出産の苦しみはたいしたことはなかったのでしょう。
余談になりますが、私の知り合いのキリスト者で、出産時に数回いきんだら子供が出てきてくれた、と言った方がありました。

 エバの堕罪の結果、出産に関して、ヤハウェ(主)は、「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。」(創世記3162017)と語られたのです。
それだけではなく、ヤハウェ(主)は、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(創世記3162017)とも語られたのです。
エバがサタンの誘惑にのることなく堕罪しないですんだとしたら、夫に支配されることもなかったのです。夫婦は良きパートナーであったことでしょう。

 また堕罪しなければ、衣服の心配をすることもなかったのです(創世記37)。
衣服の心配をしないですむ地球環境に置かれていたのです。

 堕罪しなければ、ヤハウェ(主)を恐れることもなかったのです(創世記38)。

 
アダムとエバが堕罪しなかったとしたら、
ヤハウェ(主)といつも喜びの中で交わりを持っていたことでしょう。
死ぬことがなかったでしょう。
衣食住の心配をする必要がなかったことでしょう。
獣等に対して身の危険を感じる必要もなかったことでしょう。
出産の苦しみはたいしたことではなかったことでしょう。
夫婦は相和して生活したでしょう。

 キリストの千年王国時代の預言が聖書の中に記されていますが、その内からいくつかを下記します。
 イザヤ21-4には次のように記されています。
“1
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2
終わりの日に、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3
多くの民族が来て言う。「さあ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばが出るからだ。
4
主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。2017)とあります。

 イザヤ35章には次のように記されています。
“1
荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。
2
盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光、私たちの神の威光を見る。
3
弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。
4
心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5
そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6
そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。
7
焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。
8
そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。
9
そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。2017)とあります。

 イザヤ6519-25には次のように記されています。
“19
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
20
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
21
彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
22
彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
23
彼らは無駄に労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祝福された者の末裔であり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
24
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
25
狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」2017)とあります。

 もしアダムが堕罪しなかったとしても、アダムに与えられていた恵みに比して、キリスト者に与えられた恵みは、大いにまさるものがあります。
アダムは土から造られた肉体でしたが、
キリスト者が栄化されたときには、その体は霊の体であり(1コリント1540-53)、復活後のイエス様のようです(ピリピ321)。
アダムは神様と交わりを持っていましたが、
キリスト者の霊は、主と一つ霊とされるのです(1コリント617)。
キリスト者はそれだけではなく、キリスト者の総体は、キリストの花嫁とされるのです。
ETC.

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
恵みの上に恵みを惜しみなく与えてくださいます主なる神様に感謝します。
あなたを愛し、あなたの御旨に叶った歩みをしていくことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月11日 (土)

人の子イエス様とサタンとの対決/人の子イエス様に与えられた試みの一つ2

 マタイ4:5-11には次のように記されています。
“5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6 こう言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
7 イエスは言われた。
「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、9 こう言った。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。”(2017)とあります。

 サタン(悪魔)の最初の誘惑(3節)に対して、イエス様は、申命記の御言葉で対応した(4節)ものですから、サタンは次に、御言葉を用いて、イエス様を誘惑しました。
5.6節に次のように記されています。
“すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」”とあります。
『  』内の聖句は、詩篇91:11.12に記されています。
サタンが用いたのは、詩篇91:11.12の聖句を一字一句正確に用いたのではなく抜粋です。

 余談になりますが、
日本語訳聖書は数多く出版されています。そして、訳文は多少異なるのです。
私たちが、サタンに対して御言葉で対抗するとき、いずれかの日本語翻訳聖書の一字一句を間違えることなく正確に用いることが出来なくでも、聖句の意味を正しく捉えていれば、効力を発揮するのです。いうなれば私たちの個人意訳の形になります。
何よりも、言葉の字句のみが働くのではなく、その時の「レーマ」{即自的な(神からの)言葉}と共に神の霊が働いてくださるからです。
御言葉は、神の霊の剣です。
エフェソ(エペソ)6:17に、“霊の剣、すなわち神の言葉”(直訳、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、前田訳)と記されていますから。

 話を元に戻します。
6節のサタン(悪魔)が用いた言葉に対して、イエス様は、「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(7節)と言われました。

 再度脱線しますが、
私たちに対して、悪しき霊が、聖句を用いて語ってきたとしても、その聖句と共に「神の霊」は働かないのです。一方、私たちがその時に与えられる聖句(レーマ)を用いて反撃するとき、目には見えずとも、神の霊が働いてくださっておられるのです。

 話を元に戻します。
7節に記されているイエス様が用いられた「あなたの神である主を試みてはならない」という聖句は、申命記6:16からの抜粋です。

 サタン(悪魔)は、二度にわたって、「あなたが神の子なら」と誘惑してきましたが、それに対して、イエス様は「人の子」としての立場をとって答えてこられました。
イエス様がそのような立場で対応してくるならば、とサタンも方針を転換しました。

 マタイ4:8.9の箇所を、ルカ4:5-7は次のように記しています。
“5 すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、6 こう言った。
「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。7 だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」”(2017)とあります。
 この世はサタンが支配しているのです。
1ヨハネ5:19には、「私たちは神から出た者であるが、世はくまなく悪しき者のもとに置かれている」(岩波訳)と記されている通りです。

 サタンにひれ伏す人々の中から、サタンはこの世の支配者を立てることができるのです。その最たる者が黙示録に登場する「海から上って来る獣」(黙示録13:1)即ち、この世から登場する獣(反キリスト)です。サタンはその獣に自分の力を与えるのです(黙示録13:2)。

 話を元に戻します。
イエス様は、サタンの第三番目の誘惑に対して、10節に記されてあるように、「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」と言われたのでした。
イエス様が語られたのは、申命記6:13のイエス様の意訳バージョンです。
申命記6:13を聖書協会共同訳は、“あなたの神、主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい。”と訳しています。

 サタンは、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」という命令が大嫌いです。
サタンは元大天使でしたが、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」ということが嫌だったのです。
 サタンが主なる神様に反逆したときの心の状態がイザヤ14:13.14に次のように記されています。
“・・・。「私〔元(ヘ)「ヘイレル」、神に不従順になってからは(ヘ)「サーターン」(筆者挿入)〕は天に上ろう。神の星々〔「天使たち」のこと(筆者挿入)〕のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」”(2017)

 話を元に戻します。
イエス様に「下がれ、サタン」と言われたサタンは引き下がりました(10.11)。
この試みに勝利したイエス様に、天使たちが仕えたのです(12)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちに対しても悪しき霊は攻撃してきますが、その都度「レーマ」を頂いて勝利させて頂けますように。
また、レーマを頂けるような聖なる歩みを継続していけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月10日 (金)

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 イエス様は、神のひとり子の御子ですが、人の子として洗礼を受けられました。
その結果、イエス様に神の霊が降ったのです。
マタイ3:16には、“イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊〔直訳「神の霊」(筆者挿入)〕が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。”(2017)と記されています。
この「神の霊」とは聖霊のことです。
ルカ3:21.22には、“21 さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。”(2017)と記されています。

 マタイ4:1-11には次のように記されています。
“1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6 こう言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
7 イエスは言われた。
「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、9 こう言った。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。”(2017)とあります。

 1.2節には次のように記されています。
“1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。”と。

 イエス様は、神のありようを脇に置いて、人の子として、悪魔(サタン)の試みを受けたのです。
サタンの試みを受ける前に、40日間の断食がありました。
サタンはイエス様が40日間の断食をしているのを見ていました。
そして、イエス様の断食が終了したところで、サタンが誘惑してきたのです。

 3節には、“すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」”と記されています。
イエス様が肉体を纏っていても、サタン(悪魔)は、イエス様が神の御子であることを知っていました。「あなたが神の子なら」と挑発しています。
40日間の断食で、人の子イエス様はお腹がすいていたのです。
それを見ていたサタンは、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」とイエス様に言いました。

 それに対して、イエス様は、人の子としてor人の立場において、サタンに勝利していくのです。
4節には、“イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”と記されています。

 余談になりますが、人祖アダムとその妻エバは、空腹ではなかったのに、サタンの誘惑に屈して堕罪したのです(創世記3章)。

 イエス様は、人の身分としての自分の言葉ではなく、神のことばをもってサタンに答えたのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」という御言葉は、申命記8:3の聖句の中の一部分です。
神様に従っている人の子としてのイエス様の空腹を満たされるお方は、神様であるべきでした。食物を与えるのが直接か間接かは別にして。

 イエス様は山上の垂訓の中で、「31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6章・2017)と語られました。

 イエス様は、神のことばでサタンに対応しました。
「神のことばは霊の剣です。」(エペソ6:17・ギリシア語聖書直訳)
新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、前田訳は、直訳的に、「霊の剣」と訳していますが、新改訳、口語訳、塚本訳は、「御霊の剣」と訳しています。
また、ヘブル4:12には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、・・・」(2017)と記されています。
ヘブル4:12の「神のことば」の「ことば」のギリシア語原語は「レーマ」で、そのときに神が語られる即時的なものです。聖霊も神です。新約聖書に記されていることばには「ロゴス」という語もあり、これは恒常的な言葉です。尚、神が語られるレーマは多くの場合ロゴスを用いられます。

 もし、イエス様がサタンの言葉に挑発されて、神の御子としての立場で、石をパンに変えてしまったとしたら、「15 私たちの大祭司〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4章・2017)という聖句はなかったでしょう。
また、サタンの誘惑に対して、神の御子ならば勝利できるけれども、人の身分では勝てるかどうかわからない、ということになったことでしょう。
第一ラウンドはサタンの敗北でした。

 レーマについて、マタイ10:19.20に次のように記されているのを思い起こしました。
「19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」(口語訳)とあります。
20節の「父の霊」(原語直訳型)、と訳している日本語訳聖書は、口語訳の他、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、文語訳、前田訳、塚本訳などがあり、新改訳は、「父の御霊」と訳しています。
19.20節に「レーマ」という語は出て来ませんが、「言うべきことは、その時に授けられる」(19)とあります。即時的な神のことばですから「レーマ」です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様が私たちに模範を示してくださっておられますからありがとうございます。
私たちも悪しき霊からの誘惑が来ますが、イエス様に倣って勝利することができますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 9日 (木)

イエス様は神の子であり人の子である

 マタイ3:16-4:4には次のように記されています。
“3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”(2017)とあります。

 マタイ3:16には、“イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。”とあります。

 神の御子は、万物を創造された神です(コロサイ1:16)。
神の御子は、バプテスマを受ける必要がありません。
イエス様がバプテスマを受けた時、人の子として行動しているのです。

 ピリピ2:6-8には次のように記されています。
“6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
〔キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、(聖書協会共同訳)〕
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
〔かえって自分を無にして、僕(しもべ)の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、(聖書協会共同訳)〕
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
〔へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(聖書協会共同訳)〕”(2017)とあります。

 神の御子は神ですが、人の肉体を纏った地上の歩みにおいては、神としてのありようを脇に置いたのです。そのようにすることによって、罪の贖いをすることができること、及び、人に、全き人の範を示すことが出来る為でした。

 後にペテロは、「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。」(使徒10:38・口語訳)と語っています。

 イエス様が地上生涯を歩むにあたって、神の子として即ち神として歩んだのであったとしたら、上記のようには語られませんでした。

 パウロは、「私がキリストに倣(なら)う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(1コリント11:1・2017)と語りました。
イエス様は、人が聖霊に満たされた歩みをするとき、どのようであるのかということを見せてくれたのです。
もしそうでなければ、イエス様は、「まことに〔ギリシア語原語は「アーメン」(筆者挿入)〕、まことに〔アーメン(筆者挿入)〕、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12・2017)とは言わなかったことでしょう。
パウロは人としてのイエス様を見ならったのです。

 誰も神の御子、すなわち神であるお方を見習うことなど出来ません。
キリスト者はイエス様を信じた故に神の子どもです。
しかし、神のひとり子の御子と決定的に違うのは能力です。
御子は、万物をつくられ、万物を保持しておられるお方です。
コロサイ1:16には、“天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。”(新共同訳)と記され、
ヘブル1:3には、“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。”(2017)と記されています。

 キリスト者は神の御性質にあずかる者(2ペテロ1:4)とされ、また永遠のいのちを与えられた者(ヨハネ3:16)であるという神の子どもですが、神の全能性や全知性を与えられてはいないのです。
キリスト者が力を必要とするときは、聖霊様から頂くようなシステムになっているのです(使徒1:8)。

 マタイ3:16.17には、“イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
そして、見よ、天から声があり、こう告げた。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」”と記されています。

 イエス様に洗礼を授けたのはバプテスマのヨハネでした。
バプテスマのヨハネにとって、マタイ3:16.17の出来事は重要な意味を持っていたのです。
ヨハネ1:29-34には次のように記されています。
“29 その翌日、ヨハネ〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕は自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
30 『私の後に一人の人が来られます。その方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。
33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」”(2017)とあります。

 マタイ4:1-4には次のように記されています。
“4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”とあります。

 試みる者即ち悪魔(サタン)は、イエス様に対して「神の子」と言っていますが、イエス様は、あくまでも人としての立場を崩すことなく、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」と述べています。

 サタンとは、敵対者の意です。神に敵対する者の意です。悪魔とも言います。
サタンはもと大天使でしたが、堕罪してサタンとなったのです(イザヤ14:12-15、エゼキエル28:12-17)。

 エゼキエル28:12-17には次のように記されています。
“12 「・・・。神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。
13 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石に取り囲まれていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、縞めのう、碧玉、サファイア、トルコ石、エメラルド。あなたのタンバリンと笛は金で作られ、これらはあなたが創造された日に整えられた。
14 わたしは、油注がれた守護者ケルビムとしてあなたを任命した。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。
15 あなたの行いは、あなたが創造された日から、あなたに不正が見出されるまでは、完全だった。
16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、こうしてあなたは罪ある者となった。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出した。守護者ケルビムよ。わたしは火の石の間からあなたを消え失せさせた。
17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。・・・。”(2017)とあります。

 大天使として創造された者が自由意思で堕罪しサタンとなったのです。
サタンは、イエスがどのようなお方であるかを知っており、「あなたが神の子なら・・」と挑戦してきたのです。
イエス様が神のひとり子の御子としての御力を発揮したら、サタンは一たまりもありませんが、イエス様は、罪の贖いのために、また全き人とはどのような人であるのかを示すために肉体を纏われたのですから、サタンの挑発には乗りませんでした。
 繰り返しの部分もありますが、ピリピ2:6-11を下記します。
“6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様を信じさせて頂け、永遠のいのちを与えられ、神の御性質にあずかる者とさせて頂けましたことを感謝します。
あなたが私たちを整えてくださり、私たちをあなたの子どもとしてふさわしくさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 8日 (水)

主を畏れることは知識の初め

 箴言1:7に、“主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵をも諭しも侮る。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 “主を畏れることは知識の初め。”とありますが、知識とは何でしょうか?
物理学の知識、数学の知識、諸国語の知識、音楽の知識、・・・・等を言うのでしょうか。
聖書が知識と言うときには、おもに神についての知識、真理についての知識等の聖書に啓示されている事柄を指しているのであろうと思います。

 聖書の啓示は漸進的な一面がありますので、新約聖書は、「知識」についてどのように言っているのかという観点から、幾つかの聖句を見ていきたいと思います。

 2コリント2:14には、「キリストを知る知識」という語が出て来ます。

 2コリント4:6には、「・・・神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。」(2017)とあり、
同じ個所を新共同訳は、「・・・神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」と訳しています。

 コロサイ1:9には、「・・・、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。」(2017)と記されています。

 コロサイ1:10には、「・・主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」(新改訳第三版)と記されています。

 コロサイ3:9.10には、「・・・。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」(2017)と記されています。

 テトス1:1.2には、「神のしもべ、イエス・キリストの使徒パウロから。──私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。」(2017)と記されています。

 真理の知識という用語が使われているわけではありませんが、
エペソ1:13には、「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音〔直訳は「救いの福音」ですが、この箇所をリビングバイブル旧版は「救いを約束する良い知らせ」と意訳しています。(筆者挿入)〕を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」(2017)と記されています。

 神についての知識、救い、きよめ、栄化に関する知識、・・・等々、真理に関する知識を与えて頂くためには、先ず、神を畏れ敬う心のあり方が必要であることを、箴言1:7の「主を畏れることは知識の初め。」という聖句は教えてくれているものと思います。

 このような知識は大切なものですが、知識と愛の関係についてパウロは次のように述べています。
「たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(1コリント13:2・2017)とあります。

 また知識を豊かに与えられたとしても、心しなければならない事柄を次のように述べています。
 「・・・。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。」(1コリント8:1-3・2017)とあります。

 イエス・キリスト様は、父なる神様がどの様なお方かを語ってくださいました(一部分ですけれども)。
また、イエス・キリスト様は、御父がどの様な方であるかを見せてくださいました。
ヨハネ14章には、イエス様とトマスやピリポとのやり取りが次のように記されています。
“4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。”(2017)とあります。

 父なる神様が怖い、という人がいますが、イエス様の優しさ、慈しみ深さは、御父から来ているのです。御父と御子は本質において同質なのです。
放蕩息子を待ち焦がれていたのはだれであったでしょうか、
イエス様の羊であるにもかかわらず、イエス様から離れて自分勝手な道に行き、迷子になってしまった羊を、捜し歩き、その羊を肩に担いできたのはだれであったでしょうか、
御父も御子もそのような愛のお方です(ルカ15章参照)。
さらに十字架においてはもっと大いなる愛を示されたのでした(1ヨハネ4:9.10)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御愛とあなたの御力によって保たれていることを覚えて感謝します。
いつもあなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 7日 (火)

詩篇1篇 主に喜ばれる歩み

 詩篇1篇をフランシスコ会訳は次のように訳しています。
“1
幸いである、悪い者の集いに行かず、罪人の道に立たず、神をあざける者の席に座らず、2主の教えを喜び、昼も夜もその教えを口ずさむ人。
3
その人は流れのほとりに植えられた木、時が来れば実を結び、葉もしおれることがなく、その業はみな生い茂る。
4
悪い者はそうではない、彼らは風に飛ばされる籾殻。
5
それ故、悪い者は裁きに耐えられず、罪人は正しい者の集いにあずかれない。
6
正しい者の集いは主に守られ、悪い者の道は滅びに至る。とあります。

 日本の大多数の人の「正しい者」と「悪い者」の概念は、聖書の教えとは異なるものであろうと思います。
また、日本人に限らず、諸国の多くの人たちの「正しい者」と「悪い者」の概念は、聖書の教えとは異なるものであろうと思います。

 「悪い者」(フランシスコ会訳)、「悪しき者」(新改訳2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」で、上記のような意と共に、不信心な人(神を信じない人)の意もあります。
2017
が「悪しき者」と訳した箇所を、新共同訳は「神に逆らう者」と訳しています。

 永遠にして自存のお方であるヤハウェ(主)は、万物を創造し、万物を保持しておられる神様です。
ヤハウェ(主)は、預言者エレミヤに次のように語るようにと仰せられました。

“5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。
「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から離れている者は。
6
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼する者に祝福があるように。その人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を頼みとする。
8
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。(エレミヤ17章・2017)と記されています。

 主に信頼する者を「正しい者」、主から離れている者を「悪しき者」と述べています。
イザヤは、「いつまでも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。ヤハ〔ヤハウェの短縮形(筆者挿入)〕、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、とこしえの岩だから。」(イザヤ26:4・2017)と記しています。
「とこしえの岩」の「岩」のヘブライ語原語は「ツール」で、岩の他神(God)の意もあります。「ヤハウェ(主)はとこしえの神だから」というわけです。
「ヤハウェ」の箇所を「主イエス」に置き換えてもかまいません。
「いつまでも主イエスに信頼せよ。主イエス(ヘブライ語では「イェシュア」=主は救うor救い主)は、とこしえの神(岩)だから。」とも言えます。御子を信じることは御父を信じることです。父と子は一つです、とイエス様は語られました。
三一の神の本質は一つであり、故に唯一の神です。
ヤハウェ(主)は神の呼称であり、また、ヤハウェには、自存にして永遠の意があります。
「岩」と言えば、キリスト者の多くの人が思い出す聖句に、次のようなものがあるでしょう。
“15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉〔「人間」の意(筆者挿入)〕ではなく、天におられるわたしの父です。
18
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ〔ギリシア語原語は「ペトロス」=岩の一部の意。小さい岩、石。(筆者挿入)〕です。わたしはこの岩〔ギリシア語原語は「ペトラ」=大きな岩、岩のかたまりの意(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタイ16章・2017)と記されています。
教会は、神(岩=ペトラ=ツール)であるキリストの上に立っているのです。

 ペテロは言いました。
「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」(新共同訳)と。
ペテロのみならず、キリスト者は「生きた石」(新共同訳)、「生ける石」(新改訳、口語訳)です。
ペテロはイエス様が自分に言われたことを思い出しながら上記の聖句の様に語ったのかも知れません。

 今日の箇所は、主に信頼していきましょう、というコンセプトで書いてきましたが、信仰、信頼も愛がなければ空しいのです。
 1コリント13章に、
“1
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです
3
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。2017)とあります。

 御父は、私たちを愛して、私たちの罪の贖いのために御子を遣わしてくださいました。ここに私たちに対する御父の愛があるのです。
 御子は、人の体を纏い、イェシュア{救い主(イエス)}となって、私たちの罪を一身に引き受け、私たちの身代わりとして十字架上で神の裁きを受けてくださいました。ここに私たちに対する御子イエス様の愛があるのです。
神様の愛はそれだけではありませんが。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、イエス様を愛し、あなたの御言葉に信頼し、日々歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 6日 (月)

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 聖書を信じない現代人や科学的なことについては聖書よりも現代科学の知見の方を信じるというクリスチャンの方にとっては、今日の箇所は馬鹿らしく思われると思います。

 ヤハウェ(主)が雹を用いて裁かれることは、出エジプト9章、ヨシュア1011、エゼキエル3822、ハガイ217、黙示録1621等に記されています。
 ヤハウェ(主)は地震も裁きに用いられることが、エゼキエル3819、黙示録61211131618等に記されています。
 ヤハウェ(主)は雨を降らさないという裁きをなさることもありますし、逆に洪水or長雨で裁かれるということもあります。

 主の裁きとは無関係の自然現象もありますが、主は主の裁きとして、人間が自然現象と呼んでいるものを用いられることもあるのです。疫病を主の裁きと考える人はほとんどいないでしょう。感染症は、感染性微生物やウィルスによって引き起こされるものであると考えるのが常識的なことであり、事実そうなのですが、ある種の疫病と呼ばれる感染症の中には主の裁きor懲らしめがあるのです。
 自然現象と呼ばれるものも、多くの場合は一定の法則のもとに引き起こされるものです。しかし、ヤハウェ(主)が自然現象と呼ばれるものを引き起こされるor用いられることもあるのです。

 次にいくつかの聖句を列挙していきます。
まずイスラエルに対して語られた御言葉を下記します。
申命記28章には、
“15 しかし、もしあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
21 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが入って行って所有しようとしている地から、あなたを絶ち滅ぼす。
22 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は肺病、熱病、高熱病、悪性熱病、また干ばつ、立ち枯れ、黒穂病であなたを打つ。これらのものは、あなたが滅びるまで、あなたを追いかける。
23 あなたの頭上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる〔長く続く干ばつ(筆者挿入)〕。
24 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。
27 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエジプトの腫物、腫れもの、湿疹、疥癬をもってあなたを打ち、あなたは癒やされることがない。
28 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたを打って錯乱させ、盲目にし、心を混乱させる
42 あなたのすべての木と、大地の実りは、害虫が取り上げてしまう。
59 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたへの災害、あなたの子孫への災害を驚くべき仕方で下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。
60 主は、あなたが怖がっていたエジプトのあらゆる悪疫を、再びあなたにもたらされる。それがあなたにまといつく。
61 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、このみおしえの書に記されていない、あらゆる病気、あらゆる災害までもあなたの上に臨ませ、ついにあなたは根絶やしにされる。”(申命記28章抜粋・2017)と記されています。

 イスラエルがヤハウェ(主)に従った場合について申命記28章は次のように述べています。
“2 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
11 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。”(申命記28章抜粋・2017)と記されています。

 次に、主がイスラエルの敵に対して用いられた自然現象と呼ばれるものやこれから用いられるもの等の中からいくつかの聖句を列挙していきます。
 出エジプト記9章には、疫病の災いについて、
“3 見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の手が、野にいるあなた〔ファラオ統治下のエジプト(筆者挿入)〕の家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。
4 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」
5 また、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は時を定めて言われた。「明日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がこの地でこのことを行う。」
6 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は翌日そのようにされた。エジプトの家畜はことごとく死んだが、イスラエルの子らの家畜は一頭も死ななかった。”(2017)と記されています。

 出エジプト記9章には、雹の災いについて、
“18 見よ。明日の今ごろ、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。
19 さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』」
20 ファラオの家臣のうちで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
21 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。
22 そこで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」
23 モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエジプトの地に雹を降らせた。
24 雹が降り、火〔おそらく雷の稲妻(筆者挿入)〕が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。
25 はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またそのは、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。
26 ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。”(出エジプト記9章抜粋・2017)

 ヨシュア記10章には、
“8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨシュアに告げられた。「彼ら〔アモリ人の5人の王たちの軍隊(筆者挿入)〕を恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」
9 ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。
10 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。
11 彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が天から彼らの上に、大きな石をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。”

 エゼキエル38章にはイスラエルに起こる近未来の戦争時のことと思われる内容が記されています。その中におけるヤハウェ(主)の敵に対する裁きが、
“15 おまえ〔イスラエルに攻め込む連合軍のリーダー(筆者挿入)〕は北の果てのおまえの国から、多くの国々の民とともに来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。
16 おまえはわたしの民イスラエルを攻めに上り、地をおおう雲のようになる。終わりの日に、そのことは起こる。ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがおまえを使って、国々の目の前にわたしが聖であることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
17 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言う。おまえは、わたしが昔、わたしのしもべであるイスラエルの預言者たちを通して語った、まさにその者ではないか。この預言者たちは長年にわたり、わたしがおまえに彼らを攻めさせると預言していたのだ。』
18 ゴグがイスラエルの地を攻めるその日──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしの憤りは激しく燃え上がる。
19 わたしは、ねたみをもって、激しい怒りの火をもって告げる。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。
20 海の魚、空の鳥、野の獣、地面を這うすべてのもの、地上のすべての人間は、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、崖は落ち、すべての城壁は地に倒れる。
21 わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。剣による同士討ちが起こる。
22 わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼とともにいる多くの国々の民の上に豪雨、雹、火、硫黄を降らせる
23 わたしは、わたしが大いなる者であること、わたしが聖であることを示し、多くの国々の見ている前でわたしを知らせる。そのとき彼らは、わたしが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であることを知る。」”(2017)と記されています。

 黙示録16:17-21には、
“17 第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18 そして稲妻がひらめき雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
19 あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。
20 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
21 また、一タラント〔34kg(筆者挿入)〕ほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。”(2017)と記されています。

 恐ろしくなってしまった人もいると思いますので、最後に詩篇91篇を下記します。
“1 いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。
2 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に申し上げよう。「私の避け所、私の砦、私が信頼する私の神」と。
3 主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される
4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。
5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。
6 暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。
7 千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。
8 あなたはただそれを目にし悪者〔神に逆らう者(新共同訳)〕への報いを見るだけである。
9 それはわが避け所主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をいと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。
10 わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない
11 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ
12 彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。
13 あなたは獅子とコブラを踏みつけ若獅子と蛇を踏みにじる。
14 「彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。
15 彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える
16 わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせわたしの救いを彼に見せる。」”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたに信頼し続けて歩む者であらせてください。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 5日 (日)

神であるヤハウェ(主)の力1(創造力)

 創世記11に、“はじめに神が天と地を創造された。”(2017)とあります。
「神」と訳されている語のヘブライ語原語は「エロヒーム」で神の複数形です。
聖書を読み進むと、「神」は三位一体であることが分かります。
マタイ2819bには、父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、”(2017)としるされ、この箇所をNKJVは、次のように記しています。
“baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,”
と訳し、「父と子と聖霊の名」の「名」を単数形で表しています。

 ヤハウェという語について、聖書辞典は、神の称号である。と述べています。
ヤハウェ(主)とは、神のお名前であるということです。
ゼカリヤ書12章を読むと、ヤハウェ(主)を受けて、
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。”(2017)という聖句があります。
この預言は、キリストの地上再臨時に成就する聖句です。

 使徒ヨハネは次のように述べています。
ヨハネ11-3に、
“1
初めにことば〔「御子イエス・キリスト」(筆者挿入)〕があった〔存在していた(筆者挿入)〕。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。〔キリスト・イエスは、「神のことば」とも呼ばれていました。{黙示録1913}(筆者挿入)〕
2
この方は、初めに神とともにおられた。
3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。2017)とあります。

 使徒パウロも次のように述べています。
“16
・・、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。2017)とあります。
「見えないもの」の中には天使も含まれています。

 箴言8章の中には、「知恵」を擬神化して次のように記されている箇所があります。
「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。」(2017)と記されています。
この聖書箇所は、箴言8章の30節ですが、その前の22-29節には次のように記されています。
“22
主〔ヤハウェ{ここでは御父を指しているのでしょう}(筆者挿入)〕は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
23
わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
24
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された
25
山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。〔神様は、生物の誕生に関し、無性生殖という方法もあれば単体生殖という方法もあることを人間に見せてくれています。御父に妻がいなくても生み出すことは可能なのです。(筆者挿入)〕
26
主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
27
主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、
28
上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、
29
海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、2017)とあります。

 また、三一の神の第三位格の聖霊の記述と思われる聖句が、創世記12に、“地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。”(2017)と記されています。

 三一の主なる神の働きによって創造されたことが分かります。

 ここまでは、旧創造、すなわち私たちが少しだけ知っている今の天地に関する聖句です。
主なる神様は、旧創造を壊してしまいます。
 使徒ペテロは次のように記しています。
・・、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。2017

 このことは最後の審判が行われる前に起こることです。最後の審判はキリストの千年王国終了後のことです。
黙示録2011-15には次のように記されています。
“11
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった
12
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
13
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
14
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
15
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。2017)とあります。

 この後に、主なる神様による新天新地の創造があります。
“17
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。(イザヤ6517.182017)と記されています。
 また黙示録21章には次のように記されています。
“1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレム〔キリスト者の住んでいる所(筆者挿入)〕が、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
5
すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
6
また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
7
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。/
9
また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁〔キリスト者の総体=教会(筆者挿入)〕を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたが私たちに用意してくださっておられるものに驚嘆します。
ありがとうございます。
地上にいる間も、偉大なる御力をお持ちの御父に、聖霊様の助けを頂きながら、私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りさせて頂けますことを感謝します。
かくも大いなる祝福を与えてくださっておられますあなたの御名を賛美します。
大いなる感謝をもって、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 4日 (土)

キリスト者に与えられた恵み12/栄化

 栄化について聖書辞典は次のように述べています(抜粋)。
〔栄化とは、(筆者挿入)〕贖いの適用における最終段階を指す神学用語。有効召命に始まる贖いの信仰者への適用が、キリストの再臨〔空中再臨(筆者挿入)〕に際して、信仰者がキリストの復活のからだに似た栄光あるからだによみがえることにより、あるいは、変えられることにより、完成に至ることを言う。”とあります。

 次に栄化に関連するいくつかの聖句を下記します。
 1テサロニケ416.17には、
“16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主〔キリスト(筆者挿入)〕ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)と記されています。

 ピリピ320.21には、
“20
しかし、私たちの国籍〔本国(新共同訳)〕は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる〔万物をご自身に従わせうる(口語訳)〕御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。2017)と記されています。

 ローマ830には、
神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。2017)と記されています。
「栄光をお与えになりました。」と記されているのは、神様の中では、完了している事実だからです。必ずそうなるからです。黙示録の中の未来に起こる預言なども同じ書き方です。

 神であるヤハウェ(主)は次のように言われます。
「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ4610・新共同訳)と。また、
8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。9 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。10 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それ〔わたしが語ったことば(筆者挿入)〕はわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55章・新共同訳)とも記されています。
天使ガブリエルは、主の近くで主を見てきました。次は天使ガブリエルのことばです。
「それ神のことばにはあたわぬところなし」(ルカ137・文語訳)とあります。
天使ガブリエルは、神様が語りだされた御言葉は必ず成就する、ということを見てきたのです。

 1コリント15章をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“42
・・、死んだら朽ち果てる、私たちの地上の体は、復活の時に与えられる体とは異なったものです。復活の体は決して死にません。43 今持っている体は、病気や死で私たちを悩ませます。しかし復活の時には、それは栄光に満ちたものとなるのです。確かに、今は死ぬべき弱い体ですが、復活の時には力にあふれた体となるのです。44 そして、今は死ぬべき人間の肉体にすぎませんが、復活の時には、神から与えられる霊の体になります・・・。48 人間はだれでも、アダムと同じ土の体を持っています。しかし、キリストのものとなった人はみな、キリストと同じ、天から与えられる体を持つようになるのです。49 今アダムと同じ体を持っている私たちは、そのように、いつの日かキリストと同じ体を持つのです。51 ここであなたがたに、驚くべき神の奥義を告げましょう。私たちはみな、新しい栄光の体を頂くのです。52 終わりのラッパが鳴り渡る時、一瞬のうちにそうなるのです。天からラッパの音が響くと、死んでいたすべてのクリスチャンは、たちまち朽ちない新しい体に復活します。次に、まだ生き残っている者もまた、一瞬にして新しい体に変わるのです。とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちに奥義を理解する力を与えてくださってありがとうございます。
キリストの空中再臨の時に、私たちに霊の体を与えてくださいますから感謝します。
その後、キリストの裁きの座で、報酬を与えてくださいますから感謝します。
更にその後、花婿キリストと、花嫁すなわちキリスト者の総体である教会の婚礼の儀を用意してくださっておられますことを感謝します。
「義に飢え乾く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」とイエス様は語られましたが、黙示録198には、“花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。”とありますからありがとうございます。
更に私たちを聖なる都、新しいエルサレムに、御父と私たちの主キリスト・イエス様と共に住まわせてくださいますからありがとうございます。
永遠の都、新しいエルサレムを外側から眺めたとき、その美しさは驚嘆すべきものです。
あなたのすばらしいご計画を賛美すると共に、そのご計画を成就してくださる三一の神様をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コロサイ31.2
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。2017

2021年12月 1日 (水)

キリスト者に与えられた恵み11/聖化4

 今日アップされた箇所は、12/1-3(水~金)分になります。 
昨日は漸次的聖化について述べました。
今日はハードルが少し高いのですが、瞬時的聖化について述べていきます。
(瞬時的聖化という表現が良いかどうかはいったん脇に置いてください。)

 ローマ6章について、新改訳2017訳とリビングバイブル訳を併記していきます。
 1
 2017 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。”
 リビングバイブル では、神がますます私たちを恵み、赦し続けることができるように、私たちは罪を犯し続けるほうがよいのでしょうか。

 2.3
 2017 “2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 リビングバイブル もちろん、絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだのに、どうしてなお罪の中に生きていられるでしょうか。私たちがバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト・イエスに結び合わされた時、罪の支配力は打ち破られてしまったのです。

 4
 2017
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた〔生まれながらの古い人はキリストとともに葬られた(筆者挿入)〕のです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
 リビングバイブル すなわち、罪を愛する古い性質は、キリストの死によって、キリストと共に葬り去られました。そして、父なる神が、栄光の力でキリストを復活させてくださった時、私たちはキリストの新しいいのちを与えられ、そのいのちに生きる者となりました。

 5
 2017 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
 リビングバイブル 私たちがキリストに結び合わされて、キリストといっしょに死んだのなら、やがてキリストと同じように復活するのです。

 6
 2017
 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは罪のからだ〔この体は肉体ではありません。古い人(筆者挿入)〕が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
 リビングバイブル 私たちの中にある古い性質の自分が、キリスト共に十字架につけられたのは、罪を愛する体〔古い人(筆者挿入)〕が砕かれ、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。

 7
 2017
 死んだ者〔古い人が死んだ人(筆者挿入)〕は、罪から解放されているのです。
 リビングバイブル 罪に対して死んだ者は、どんな罪の誘惑や力からも自由にされるのです。

 8
 2017
 私たち〔私たちの古い人(筆者挿入)〕がキリストとともに死んだのならキリストとともに生きる〔私たちの新しい人はキリスト共に生きる(筆者挿入)〕ことにもなる、と私たちは信じています。
 リビングバイブル 罪を愛する古い性質がキリストと共に死んだのですから、確かに私たちは、キリストの新しいいのちを共有しているのです。

 9
 2017
 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
 リビングバイブル  キリストは死者の中から復活されたので、もう二度と死ぬことはありません。死には、もはやキリストを支配する力がないのです。

 10
 2017
 “なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。”
 リビングバイブル キリストは、罪の力にとどめを刺すために、ただ一度死なれました。しかし今では、神との絶えることのない交わりの中に生きておられます。

 11
 2017
 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
 リビングバイブル ですから、あなたがたの古い罪の性質も、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。そして、その代わりに、私たちの主イエス・キリストに結ばれ、神に対して生きる者、神の御声に敏感に応答する者となりなさい。

 12
 2017 ですから、あなたがたの死ぬべきからだ〔肉体(筆者挿入)〕を罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
 リビングバイブル これからはもう、あなたがたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その欲望に従ってはいけません。

 13
 2017
 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
 リビングバイブル 体のどんな部分をも、罪を犯す道具にしてはいけません。むしろ、自分自身を神にささげなさい。あなたがたは、死者の中から生かされた者であり、神に使っていただく良い道具として役立つ者となりなさい。

 14
 2017
 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
 リビングバイブル 罪は、二度とあなたがたを支配しません。なぜなら、あなたがたはもう律法に束縛されてはおらず、恵みの中にあって、自由の身となっているからです。

 15
 2017
 では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。”
 リビングバイブル それでは、どうなのでしょう。律法を守ることによってではなく、恵みを受けることによって救われるのであれば、「罪を犯してもかまわないのだ」ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

 16
 2017
 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。”
 リビングバイブル 知らないのですか。自分の主人は自分で選べるのです。死に至る罪を選ぶこともできれば、義(正しさ)に至る従順を選ぶこともできます。だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたの主人となり、あなたがたはその奴隷となるのです。

 17.18
 2017
 “17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、18罪から解放されて、義の奴隷となりました。
 リビングバイブル “17神に感謝すべきことに、あなたがたは、以前は罪の奴隷になる生き方を選んでいましたが、18今は、罪という古い主人から解放されて、義という新しい主人の奴隷になっているのです。

 19
 2017
 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。
 リビングバイブル このように奴隷と主人にたとえてわかりやすく言うのですが、あなたがたはかつて、あらゆる罪の奴隷でしたが、今は、あらゆる正しいこと、きよいことに仕える奴隷とならなければなりません。

 20
 2017
 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。
 リビングバイブル あなたがたは、罪の奴隷であった時には、良いことについては無関心でした。

 21
 2017
 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。
 リビングバイブル その結果はどうだったでしょうか。自分がしていたことを考えるだけでも、恥ずかしくなるはずです。その行き着くところは、永遠の滅びでした。

 22
 2017
 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
 リビングバイブル しかし今は、罪の力から解放されて、神に仕える者となりました。
そして、神があなたがたに下さる恵みによってきよくされ、永遠のいのちが与えられているのです。

 23
 2017
 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
リビングバイブル 罪の支払う報酬は死です。しかし、神が下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです。

 下線部分を信仰によって受け取れ、実体化されると、そのとき瞬時的聖化が起こるのです。
信仰が働かないときには先延ばしにしてください。
無理やり思い込んでも信仰がついて行きません。
また、悪魔悪霊の誘惑を見破り、敵である悪魔悪霊を排除することができないと、長続きしないのです。長続きしないと、この聖句は不可能だと考えかねないのです。
主は、キリスト者を信仰から信仰へと進ませてくださいます(ローマ117)。
主の御業に期待してください。
ローマ117には、福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。2017)と記されています。
初めの「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エク」で「~から、from」の意です。次の「信仰」ギリシア語原語による前置詞は「イース」で「~の中へ、into」の意です。
三番目の「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エン」で「~中で、in」の意です。

 ガラテヤ516-25には次のように記されています。いくつかの日本語訳聖書を下記します。
 聖書協会共同訳(2018版)は以下の様に記しています。
“16
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません
17
肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのために、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
18
霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19
19-21節は肉の行いのリスト(筆者挿入)〕肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ〔別訳「酒宴」(欄外注)〕、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
22
これに対して、霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
24
キリスト・イエスに属する者は、肉を欲情と欲望とともに十字架につけたのです
25
私たちは、霊によって〔「霊の人」という表現については、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳・前田訳・塚本訳・フランシスコ会訳の1コリント21531を参照(筆者挿入)〕生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。

 新改訳2017は以下のように記しています。
“16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
18
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ329参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 この箇所で「御霊」と訳している日本語訳聖書は、新改訳、口語訳、文語訳です。リビングバイブルは聖霊と訳しています。
ギリシア語原語は、単に「霊」です。
「御霊」ではなく「霊」と訳している日本語訳聖書は、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、前田訳、塚本訳です。

 1コリント617には、・・、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)
岩波訳は、主に接合させられる者はしかし、〔主と〕一つの霊なのである。と訳し、
新共同訳は、・・、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。と訳しています。
ここの「主」とは、復活のキリストです。

 ガラテヤ219.20.21aの聖句に対する日本語訳聖書を三つ下記します。
 新改訳2017は次のように記しています。
“19
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました〔十字架につけられてしまっている(岩波訳)〕。20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。21 私は神の恵みを無にはしません。

 前田訳は次のように記しています。
“19
わたしは神に生きるために律法によって律法に死にました。わたしはキリストとともに十字架につけられました。20 わたしはもはや生きているのでなく、わがうちにあるキリストが生きているのです。 今わたしが肉にあって生きているのは、神の子のまことによって生きている のです。 彼はわたしを愛してわたしのために自らをおささげでした。21 私は神の恩恵を無にしません。

 
聖書協会共同訳は次のように記しています。
“19
私は神に生きるために、律法によって律法によって死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです。21 私は神の恵みを無駄にはしません。

 20節の私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです(聖書協会共同訳)という聖句箇所について、他の聖句から考察できる箇所の一つを下記します。

 イエス様が十字架にかかられる前の最後の晩餐での祈りです。
イエス様は次のように祈られました。
6 あなた〔御父(筆者挿入)〕が世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名〔御父ご自身がどの様な方であるかということ(筆者挿入)〕を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました〔イエスがキリストであるということを信じ通しました{ヨハネ628.29参照}(筆者挿入)〕。7 あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています8 あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。12 彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。13 わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。15 わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(ヨハネ17章・2017

 まさしくイエス様の信仰によって、イエス様の真実によって、私たちは生かされていることを知ります。

 またヨハネ10章には次のようなイエス様の御言葉があります。
27 わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません30 わたしと父とは一つです。」
誠実なる御父と御子の御力によって私たちは守られているのです。
これまでの一連の文章で述べている「信仰」「真実」「誠実」等の言葉のギリシア語は「ピスティス」です。

 ガラテヤ219.20を、聖書協会共同訳を基にして自分流に解釈訳を試みてみます。
“19
私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。生まれながらの古い私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや新生前の古い私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、原子によって構成されている肉体の中にあって生きている新生後の私は、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実によるものです。

 ガラテヤ524の「キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ329参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」という聖句や
ローマ66の「・・。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(口語訳)などの聖句の内容を信じ切ることが出来たとき、このことは自分のものとして実体化されるでしょう。
その後は、霊によって生きるのです。

 しかし、信じたと思っても、直ちに悪魔悪霊は、そうはさせまいと活動するのです。
即ち、悪魔悪霊は、罪を犯させようと誘惑しますし、悪魔悪霊の誘惑の段階において、その誘惑はあたかもその人自身の肉から出ていると思わせたりするのです。
そのようにして、「お前はまだきよめられていない」とたたみかけて、ガラテヤ524やローマ66の「ピスティス」から引きずり降ろそうとするのです。
これらの聖句を信じ続け、霊にあってor霊の人として歩み続けるためには、悪魔悪霊の様々な偽りや誘惑に対処していく必要があるのです。悪魔悪霊は多くの手口を用います。
それゆえ、霊を見分ける賜物の必要と、悪魔悪霊の手口を見破り、彼らを敗退させる霊的方法を自分のものとする必要があるのです。

それらを継続しないと、瞬時的聖化も継続しないでしょう。
また、瞬時的聖化にあずかっても、その後成熟を目指すのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたから遣わされた天使は、「きよい者はますますきよくなるのです。」(黙示録2211・リビングバイブル訳)と語りました。
瞬時的聖化にあずかれる人は少ないでしょうが、いずれにしても聖き歩みの継続こそ大切であり、いつも主と共に歩んでいけば、主は必ずそのようにしてくださいますから御名を賛美します。
栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えてくださる主の御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
救いと聖化を混同しないようにお願いします。
救いは、キリスト・イエス様を信じるだけ(心にお迎えするだけ)で成就します。
救われたら永遠のいのちを持っています。
聖化は、救われた後の歩みと関係するものです。

2021年11月30日 (火)

キリスト者に与えられた恵み10/聖化3

 聖化とは何なのでしょうか?

キリスト者が「聖化される」というのは、キリストと似た者とされていくこと、を言うものと思います。
 1ヨハネ31-3には次のように記されています。
“1
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3
キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします2017)とあります。

 次に、エフェソの信徒(エペソ人)への手紙4章に記されている箇所を抜粋しながら下記します。
“1
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたし〔パウロ(筆者挿入)〕はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み
:2
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい愛をもって互いに忍耐し
3
平和のきずなで結ばれて、霊〔「御霊」(新改訳)、「聖霊」(口語訳)〕による一致を保つように努めなさい
4
体〔キリストの体。{1コリント1227、エペソ123参照}(筆者挿入)〕は一つ、霊〔「御霊」(口語訳・新改訳)〕は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望〔栄光の望み=栄化(筆者挿入)〕にあずかるようにと招かれているのと同じです。
5
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、〔“one Lord, one faith, one baptism”(NKJV)〕
6
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。/
13
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです
14
こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
15
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます
16
キリストにより、体〔キリストの体=教会(筆者挿入)〕全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分〔個々人のキリスト者(筆者挿入)〕は分に応じて働いて体〔キリストの体=教会(筆者挿入)〕を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
17
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
20
しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。/
22
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
23
心の底から新たにされて、〔直訳は「心の霊において新しくされ」。「心」と訳されている語のギリシア語原語は、「ヌース」で、心、知性、理解、理解力etc.の意があります。理解力の霊によって新しくされ、とも読めます。「真理の御霊によって新しくされ」ということかもしれません。(筆者挿入)〕
24
神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません
25
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません
27
悪魔にすきを与えてはなりません
28
盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい
30
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい
32
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい(新共同訳)とあります。

 回心したばかりのキリスト者が、一瞬の内に主なる神様が願っているような心の状態を持ち、かつ歩むということは、普通は無理なことです。
聖書を読みながら、一つ一つ、主に示されたことを悔い改め、主に変えていただき続けるという漸次的聖化の歩みをするのが一般的でしょう。

 神の御旨を歩むことが出来るように変えていただく歩み、それは聖化されていく歩みです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
この世にも、「這(は)えば立て、立てば歩めの親心」などという言葉がありますが、キリスト者に対して、あなたは、主を信じて救われたら、聖化されてキリストの姿に似た者とされていくことをお求めであることを聖書から教えられます。少しずつでもキリストに似た者とさせて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月29日 (月)

キリスト者に与えられた恵み9/聖化2

4.良心のきよめ
 ヘブライ(ヘブル)914には次のように記されています。
 新共同訳は、・・、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。と訳し、
 2017は、・・、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、・・、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうかと訳しています。

 ヘブル(ヘブライ)1022を諸日本語訳聖書は次のように記しています。
 口語訳は、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。と訳し、
 新共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって〔別訳「全き信仰をもって」(欄外注)〕、真心から神に〔「神に」は補足(欄外注)〕近づこうではありませんか。と訳し、
 2017は、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。と訳しています。

 ヘブル914より、良心をきよめるのはキリストの血であることが分かります。
ヘブル1022の聖句をギリシア語聖書(TR)で見ると、2017の「血が振りかけられて」という言葉がありませんが、2017の底本にはあるのかor訳者により補足されているのか分かりませんが、ヘブル1019からの文脈やヘブル914の聖句からみて、もし「血が振りかけられて」という語が訳者の補足であったとしてもそれは妥当であり、理解しやすくなっていると思います。

 キリストの血は、良心をきよめるのです。

 良心とは、善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。とデジタル大辞泉に記されています。

 良心をキリストの血によってきよめられた人とそうでない人の大きな違いは何でしょうか?
良心をキリストの血によってきよめられた人は、「キリストを信じないことは罪である」(ヨハネ169)と言うでしょう。
良心をキリストの血によってきよめられた人は、キリストは神でありまた人ともなられたお方、また神の御子であるお方、唯一の救い主であるお方と信じることに何の疑問もないでしょうし、またキリストのことばを正しいことばであると受け入れることができるでしょう。
 それでは、イスラム教の人はどうでしょうか?
イスラム教徒の親の中には、自分の子どもがキリストを信じたらイスラム教の良心に照らして、子どもを殺すということをする人もいます。
これはヤハウェ(主)からすると汚れた良心です。
 共産主義思想100%の人がいたとします。
その人は無神論です。神を信じるというのは邪道であり罪です。
これも汚れた良心でしょう。
 第二次大戦時、思想の問題によって捕らえられたキリスト者たちがいました。
その時の尋問の中に、「天皇とキリストとどちらが偉いか」というものがあったそうです。
「キリストです。」と答えると有罪です。
有罪宣告した人の良心は、汚れた良心です。

 聖書的倫理観を間違っているとする良心は汚れた良心です。
心にキリストの血の注ぎを受けると、良心がきよめられ、聖書に記されていることを正しいと考えることが出来るようになるのです。

 パウロは幾度もキリスト信仰の故に逮捕されました。
パウロは法廷で、「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって〔全くきよい良心をもって(新改訳第三版)〕、神の前に生きてきました。」(使徒2312017)と証言しています。
それに対して大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じたのです(使徒232)。
大祭司アナニヤは、キリストが神の子であり、救い主であるということを信じていないのです。アナニヤは、ユダヤ教の大祭司でありながら、そしてパウロと同じ聖書(当時は今でいう旧約聖書)を持っていながら、キリストの血の注ぎを受けていないために、聖書を正しく読むことが出来ず、キリストが神の子であり、救い主である、と信じることの出来ない穢れた良心を持っていたのです。その点において、大祭司アナニヤは、善を悪としている汚れた良心の持ち主であることを明らかにしています。

 唯一の真の神であり三一の神であるお方が善とすることを善とすることができるためにはキリストの血の注ぎを受けて良心をきよめて頂く必要があるのです。
 良心がキリストの血によってきよめられると、まことの神の御目から見て正しい善悪の判断が出来るようになるのです。そして、神が「善」とすることを正しいこととし、神が「悪」とすることを悪いことと判断することが出来るようになるのです。
 ヒューマニズム的に生きている人は、聖書の中には善いことも書いてあるけれども、受け入れられないことも書いてあると言うでしょう。それはその人の良心がキリストの血によってきよめられていないからです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
キリストの血によって良心がきよめられないと、聖書を読んでも、あなたの御命令に従って歩むということができないことは当然のことであることを教えてくださっておられますから感謝します。
パウロの様に「私は今日まで、あくまでもきよい良心にしたがって、神の前に生きてきました。」と言える可能性を与えてくださっておられますことを感謝します。
パウロのように言えるためには、自分自身を聖別し、毎瞬毎瞬聖霊によって歩む必要を覚えます。
常に聖霊に満たされて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

明日に続く

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